今回は清松総合鐵工株式会社代表、清松 芳夫氏にお話を伺ってきました。
「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。
ぜひご覧ください!
会社名称 | 清松総合鐵工株式会社 |
代表者 | 清松 芳夫 |
設立 | 昭和42年3月28日 |
主な事業 | 鋼構造物の設計および施工
製缶 諸機械類の据付 解体並びに運搬総合建設業 |
社員数 | 32名(取材時) |
会社所在地 | 大分県宇佐市大字尾永井470番地の1 |
会社HP | http://www.kiss.ne.jp/ |
事業内容を教えてください
当社はビルや建物の鉄骨の設計・加工から組立までを総合的に行っている会社です。鉄骨とは建設工事における「基盤」となるもので、人間の体に例えると文字通り骨にあたる役割です。総合建設業を営む会社から仕事を依頼され納入しています。
会社の特徴はありますか?
会社を発展させるためにはブランディング戦略は欠かせません。しかしながら、会社をブランディングするためにはそれ相当の費用が掛かりますが、我々のような中小企業は同じような業務形態の同業他社も多く、その金額に見合う効果を得ることはかなり難しいと思います。
そこで私は社長のブランディングに力を注ぐことにしました。私の名前を冠したラジオ番組を持ち「大分県で一番有名な社長」と自ら名乗り、最近ではいろいろな場所でそのようにご紹介いただくことも多くなりました。
会社の広告には莫大なお金がかかりますが、社長である私自身が、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌等のメディアへ出ることは、アイデアや行動力は必要ですが、比較的安価にできます。結果的に会社を広報することにつながります。テレビやラジオだけでなく、YouTube、Instagram、TikTokなど様々な媒体で活動していますのでぜひ登録をお願いします!URLはLink Treeにまとめていますので、ぜひご覧ください!
Link Tree https://linktr.ee/yossykiyomatsu
清松総合鐵工がどのようにはじまったのか教えてください
清松総合鐵工は父が興した会社です。元々は「清松組」という現場鍛冶を主体とした鉄工関係の会社で、当時の鉄工業は比較的に新しい職業で、従来からある仕事に就くことができなかったような荒くれものや社会にうまく適合できないような人たちが働くようなところでした。
会社を始めた当初は、飯場といって現場内やその近くに設けられたバラック小屋の宿泊所に住み、母親は私をオンブしながら50人ほどの男たちの食事の準備や洗濯をしていたと聞いています。社員や住んでいた環境が良くなく、手を付けられない状況だったため、両親は私への教育的影響を憂い、会社を一旦解散し、母の地元である大分県の現在地に帰ってきたとのことです。その地で昭和42年(1967年)、父と母の二人だけで再度イチから鉄工所を始めました。
どのような子供時代だったのでしょうか?
みんなをまとめるリーダータイプでしたね。ガキ大将ではないですが、私の周りに不思議と人が集まってました。 また小さい頃から父親から会社を継ぐように言われて育ったので、漠然と「将来は社長になるんだ」と思っていました。
新卒はどのような会社にお勤めだったのでしょうか?
三井造船株式会社に入社しました。大学のゼミで毎年1人は三井造船に就職できる推薦枠があり、教授が私を選んでくれました。世界を相手に仕事がしたいと思っていたので、とても良い経験ができました。MB(モントベルビュー)価格といってLPガスの現地取引価格の指標になっているほど埋蔵量が豊富な町アメリカのテキサス州ヒューストン近郊のモントベルビューで高密度ポリエチレンプラントや、サウジアラビアのアルジュベールという町で石油精製プラントなどを担当しました。入社して5年ぐらいは、自分のやりたいことを実現するには家業を継ぐよりも、この会社にいた方が良いのでは?と思っていました。
会社員時代に心に残っている話はありますか?
社会人1年目の時のことですが、プラザ合意に端を発した円高不況の煽りを受け、実家の会社に倒産の危機が訪れました。母から電話が掛かってきて「お父さんがクレーンの上によじ登ったりして、死に場所を探しよる。」と泣きながら言われ、もし父が死んだなら会社の後始末もあり、私は休職して実家の大分に長期で帰らないといけない状況になるため、当時の部長に相談したところ「どうしたら会社は潰れないのか?」と聞かれ、「仕事が全く無く、受注工事明細表も銀行に提出できず、融資を受けるにもその返済源を明示できなくて、銀行からは貸し剥がしされ、倒産するしかない状態に追い込まれています。仕事さえあれば何とかなると思うのですが…」と具体的な話をしたところ、部長はすぐさま三井造船から5千万円程度の仕事を作って発注してくれました。もし仕事を完遂できなければ、部長自らが責任を取らなければならないというリスクを背負いながらも、何ひとつメリットのないカケを私のためにしてくれたのです。
さらに実家の会社では仕事を遂行するには技術力や人員が不足していると言うと、三井造船からスーパーバイザーを派遣してくださり、設計などのサポートもしてくださいました。その当時の工場規模ではその仕事をするには小さすぎると相談すると、近隣にあった大きな工場を借りてくれたりもしました。
後日部長に「何故、あの時リスクしかないのに助けてくれたんですか?」と尋ねると、一言「お前のためだから!」と言われ、その部長には今でも心から感謝しています。
どうして会社を継ぐことになったのでしょうか?
入社して6年目、今度はバブル崩壊を受けた大不況が会社を襲います。その時も母から電話があり「会社が倒産するかもしれない」と言われました。私は前述の倒産危機の際に取引銀行に言われるまま会社の連帯保証人になっていました。そのため、潰れれば私にも債務責任が生じます。その時の金額で2億円ほどだったと記憶しています。2億円というと当時の三井造船での私の生涯給与に匹敵します。さすがにそのような状態に陥れば、大好きだった両親ではありますが、その父や母を恨むかも知れないと思いました。
でも、私を生み育ててくれた両親を恨みたくはありません。どうすれば良いか?何か方法はないか?考え抜きました。そして、ひとつだけ方法を見つけることができました。それは私が会社を継いで、私の責任で会社を潰せば、誰のことも恨まなくて良いのでは!?というものでした。そして私は、両親を恨みたくないという一心で、会社を継ぐことを決意して、これまた多大な恩を受けた三井造船を辞めて、実家の会社に入社致しました。
時は1992年。バブル崩壊の波が日本全体を覆いつくし、後に失われた30年と言われた時期でしたので、入社後10年は資金的にとても厳しい時期を過ごしました。しかし、自らの責任で潰すために入社した会社です。何があっても、どうなっても元々だと考え、でも、座して潰れるのを待つというのも違うと思い、何も恐れることなく悪あがきしてみようと思いました。その悪あがきが今も続いているという感じですね(笑)
経営者になってから大変だったことを教えてください
それまで所属していた大企業とは違い、当時の我社は、我を通す職人気質の社員が多く、妙なところで張り合って、至るところでケンカが勃発。社長の私自身も、社員たちになめられないようにいつも眉間に皺を寄せ、声を荒げ威圧するような日々でしたし、しかも私自身は営業と接待の毎日で、自分の会社の社員の名前すらうる覚え、中には名前と顔をまともに一致させることができない社員もいる有様でした。当然、社員たちの家族のことなどに興味が湧くこともありませんでした。また社員たちも職人としての技術は磨くものの、一匹狼的な性格の社員が多く、他者とは仲良くしようとしないので、現場ではいつもトラブルが起きていました。
このような状態でしたので、組織をまとめることにとても苦労しました。
どのように乗り越えたのでしょうか?
当時私の右腕であった専務の突然の辞職がキッカケで会社が大きく変わり始めました。何に腹を立てたのか? 今もって分かりませんが、ある日突然「もうヤメタ!」と言って帰宅してしまいました。その日以来引き継ぎさえなく会社からいなくなったのです。当時の私は、仕事の受注だけが自分の仕事だと思っていて、出社しても専務にだけに指示を行い、他の社員たちと話す機会もなく、組織の管理や指示などは全て専務に任せていたので、彼が抜けることで大きな混乱が生まれました。社員とのコミュニケーションも取れていなかったですし、仕事に関しても専務に任せている部分は大きかったです。
我社の社員は皆、前述のように、自身の仕事内容に関してプロフェッショナルなので、各々の仕事内容には問題はないのですが、実際それまで専務が行っていた工程管理に関しては、なかなか思い通りには行きません。全体の工程を守るには、それぞれの部署のそれぞれの担当者一人ひとりが勝手気ままな作業をしていては成り立ちません。全体工程に合せて指揮をとる旗振り役が必要になります。しかし、それまで社員たちとのコミュニケーションを取ることもなく、誰がどんな作業をしているのかさえ知ろうとしてこなかった私には、それはとても難しいことでした。
社員たちとコミュニケーションを取ろうにもどうすればいいかさえ分からず、最初は多くの失敗をしました。ですが、このままでは良くないという気持ちは強くあり、自身の行動を振り返ってみて、自分の想いを社員に伝える機会を設けていなかったことに気がつきました。まずはその機会を作らなければと思いましたが、普段は営業と接待で会社にいることさえマレな私に、どうすればその時間が作れるのか?と考えあぐねました。その時思いついたのが「そういえば、一日一回必ず社員全員と顔を合わす時間があった」ということでした。そして、それこそが「朝礼」でした。この状況を打破するために、マンネリ化していた朝礼を改革することを決意しました。
そうと決まれば、まずはどのような朝礼にするのか?朝礼について書かれている本は手当たり次第に読み漁り、朝礼という検索キィでYouTubeなどを視聴することを続けていると、どうしても理解できない言葉に行き当たります。それは「承認」という言葉です。朝礼について書かれているどの本を読んでも「承認が大切」と書かれていました。当時の私には理解できない言葉でした。「承認=褒めること」と思っていた私にはどうしても受け入れられない言葉でした。失敗した人やサボってる人に対して褒めるってどうゆうこと?って思い納得できなかったのです。
今度は「承認」について調べ始めます。その中で出会ったのがYouTube講演家の鴨頭嘉人さんの言葉でした。「承認って、小学校の運動会にビデオカメラを持ってくるお父さんの気持ちになることですよ。自分の子どもの駆けっこをビデオに撮りながら、一番だったら褒めてやろう!ドベだったら許さないぞ!って思いながらカメラを抱えているお父さんがいると思いますか?一番であろうとドベであろうと良くやった!って抱きしめてやるのがお父さんでしょ?」この言葉で承認という言葉の意味がやっと分かったように感じました。
それ以後「承認だけで成り立つ会社」というキャッチフレーズを掲げて、朝礼も含めて社員と向き合うようになります。人は叱られてる間は言い訳を考える生き物です。そして言い訳を考えている間は反省することはありません。言い訳とは自分以外の者にその責任を転嫁することだからです。ですから、叱った時点で経営者の負けが確定します。なぜなら反省をしていない社員は再び同じ間違いを繰り返すからです。反対に承認してあげたらどうでしょう?ミスを犯した相手を受け入れ・認め・許すのです。
人には承認欲求というものがあり、叱られると腐ってヤル気を失ってしまいますが、ちゃんと認められれば「もっと認めてもらいたい」と思うようになり、それがモチベーションとなりさらに頑張るようになります。
朝礼では、自分がしてしまったミスや失敗や間違いなどをみんなの前で発表すればお咎めなしとする「ええじゃないか運動」や、社員同士がお互いの良いところを見つけてお礼を言う「イイネ運動」などを考案し取り入れたところ、あれほどぶつかり合っていた社員たちが笑顔で語り合い、社内も明るい雰囲気になっていきました。それは私一人の力だけでなく、新しく任命した常務がサポートしてくれたことも大きく、社内に味方がいるというのは心強かったですね。
現在、弊社の朝礼はとても有名になり、何度もメディアに取り上げて頂いたこともあり、全国から視察に来られる企業様も増えて参りました。毎月一度、各月の初日(その日が土日祝の場合は明けての平日)にちょっと長めの社長講話を交えて公開朝礼(清松総合鐵工株式会社月初の朝礼)も行っていますので、機会があれば参加してみては如何でしょうか?
今後の展望を教えてください
私は昔から「人は幸せになるために生きている」と考えていました。ところが、自分一人だけが幸せになるため、結果的に周りの人が辛そうな顔になっていたとすると、それでは幸せを感じることができないと感じたのです。そのことに気づいてからは、会社のみんなや地域の方を笑顔にするために活動していこうと思いました。
何か困難な状況になった時は、それを誰かのせいにするのではなく「私に何ができるのか?」を考えて行動するようにしています。新型コロナウイルスの蔓延で大幅に仕事がなくなった時は、社員たちに「今まで忙し過ぎてできなかった家族サービスをしてきてください!」とテーマパークの一日乗り放題チケットと、そのテーマパーク内にあるホテルの宿泊券を渡して、有給を取得してもらいました。社員だけでなく、テーマパークも売上が下がっていたので両方にとってプラスになったのではないでしょうか?他にも飲食店やフリーランスの方に向けたサポートチケットも作成して、お店の家賃や維持ができる現金が集まる仕組みを作ったりしました。中にはその取り組みによって80万円もの現金が集まり休業要請期間に改装してコロナ明けにロケットスタートを切れたお店もありました。
ロシアのウクライナ侵攻の際には、一人でも多くの方に「平和の大切さや戦争の悲惨さ」を感じてもらうために、弊社の壁を利用して「平和のメッセージ」を書いてもらう「LENNON WALL」という活動を始めました。現在では400名を超すの方々がその壁に書き込んでくれて、活動に参加して下さった方は会社のホームページで紹介させて頂いてます(http://www.kiss.ne.jp/lennon_wall/)。
さらに、太平洋戦争で行われた作戦「特攻」を辛いから悲しいからと目を背けるのではなく、笑いと音楽のチカラで若い世代に伝えていく活動をしている「アップダウン」というお笑い芸人の想いに共感して、舞台「桜の下で君と」を主催し千人の方々に観て頂いたり、広島出身で現在は平和活動に軸足を移して活動している、かつて一世風靡した音楽家「原田真二」のコンサートを開催したりしています。
これからも、我社の社是である「世のため/人のため/自己のために」を旨に、社員や地域の笑顔のために挑み続けようと思います。
おすすめの書籍を教えてください
1902年に英国の作家ジェームス・アレンによって著された『「原因」と「結果」の法則』です。この本は全世界で聖書の次いで読まれている大ベストセラーの自己啓発本です。
人は何かうまくいかなかったとき結果についてのみ言及します。そして誰にその責任はあるのか?と「犯人捜し」を行い、犯人を見つけ罰を与えればそれで安心するのです。でも犯人が分かってもその問題は何も解決されていない場合が殆どです。例えば、裏金問題で国民の反感を買っている自由民主党の問題でも同じです。裏金を作った政治家に「怪しからん!」と怒り謝罪をさせ処分をしても問題は一向に解決しません。処分をされた議員を見て溜飲は下がるかもしれませんが、時が経てばまた同じような問題がおこることでしょう。なぜなら政治にはお金が掛かるという原因が変わらないからです。
この本は「原因が変わらなければ、結果はおのずと同じになる」ということを説いています。この本を理解することで、会社内で何か問題が起きた場合でも、問題を起こした社員を見つけ断罪することよりも、何故その問題が起きたのか?という原因を追究することの方が大切であると思うようになることでしょう。目に見える世界においても、目に見えない心の世界においても、常に揺らぐことがない原因と結果の法則が必ずあります。ぜひ読んでみてください!
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投稿者プロフィール
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新入社員を含めたフレッシュなメンバーを中心に、出版サポートの傍らインタビューを行っております!
就活生に近い目線を持ちつつ様々な業種の方との交流を活かし、「社長に聞きたい」ポイントを深掘りしていきます。
代表者様のキャリアを通して、組織の魅力が伝わる記事を発信していけるよう、これからも一生懸命運営してまいります!
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