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BIG HUG おきなわ株式会社代表取締役社長 兼 CEO、杜 宙樹氏

今回は、BIG HUG おきなわ株式会社代表取締役社長 兼 CEO、杜 宙樹氏にお話を伺ってきました。

ご自身もストレスによって依存に走った過去がある中、立ち直り、現在は精神に疾患を持つ方々が、自立した地域生活を送れるように、お手伝いをする共同生活援助施設(グループホーム)の運営を行なっています。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

 

 

会社名称 BIG HUG おきなわ株式会社
代表者 代表取締役社長 兼 CEO、杜 宙樹
設立 2018年
主な事業 共同生活援助施設の運営
訪問看護サービス
社員数 14名(取材時)
会社所在地 〒904-0117

沖縄県中頭郡北谷町字北前247パシフィックキタマエ401

会社HP https://www.bighug-okinawa.info/

 

20歳のときにご結婚されて、社会人としての生活がスタートされましたが、その時はどういったお仕事をしていたんですか

私は美術系の大学に行っていましたが、結婚が早かったので、大学は辞めて家計を維持するために、体を使う肉体労働の仕事を選びました。稼ぎがいいので中距離トラックのセールスドライバーの仕事をして、生活を一生懸命安定させようとしていましたね。

しかし、23歳のときに大きな出来事がありました。父親を航空機の墜落事故で亡くしました。学生時代、父親と勘当状態だったんですけれども、ようやく僕にも子供ができて、父親との関係を修復できた矢先の出来事でした。ですので、とても後悔したり寂しい思いをしたりしました。

そこから父親が働いていた会社から「親父がやり残した仕事をやらないか」と声がかかり、インテリア関係の仕事を始めるために関西から東京に引っ越しました。

インテリア関係の企画営業職に就き、成果を出すため寝ずに仕事を頑張っていました。頑張りすぎた結果、ストレスから気分を変えたいと思い、アルコールやドラッグの依存症になっていきました。

一進一退を繰り返しながら、その後も仕事はなんとかやっていました。その当時私は28歳で、世の中はバブルの時代でした。バブル時代は景気が良かったので、インセンティブでアメリカに留学させてもらいました。また人より成績も良かったので、沢山稼ぐこともでき、「自分はできる」と勘違いしていました。

 

アメリカではどのような生活をされていたのでしょうか?

はじめアメリカでは語学の留学をしていました。アメリカのオクラホマという本当に日本人の少ない土地で、ゼロから英語を勉強して少し会話できるようになったので、そこからロサンゼルスに移りました。そこでは、私の働いていた企業と提携のあるアメリカ企業入り、日系企業の担当営業をしていました。

外から見るとロサンゼルスに家を購入し、子供は現地の学校に通っていて、まるで人生を成功させた人に見えたかもしれません。

でも実際の生活は仕事や言語の壁などのストレスで、酒や薬物に手をだしてしまっていました。そこから家庭を犠牲にし、アルコールに溺れ、ストレスを紛らわせるように自分の痛みを緩和させていました。

そんな生活は長続きせず、仕事ができなくなっていきました。36歳の時にはアメリカの会社と日本の会社で合弁会社を作り、3年ぐらい社長職をやっていましたが、結局存続できず会社を倒産させてしまいました。私は家族をアメリカに残し、日本に逃げ帰ってきました。

日本に帰国し、人生を何とか立て直そうと頑張りますが、41歳で底をついてしまいました。仕事を離れ、家庭も失い、社会的な信用や財産もなくなり、依存症の回復の支援施設に行きました。

 

どういった支援施設に行かれたのでしょうか?

北関東、茨城にあるダルクで回復のプログラムを行いました。当時は一気に何もかも失ってしまったので、当然考えることは死についてです。ただ、死ぬことも、怖くて生きることも怖かったです。もちろん希望もなかったです。しかし、ダルクで依存症からの回復者に初めて会いました。依存症からの回復なんてイメージが全然つかなかったのでもう終わったなと思っていましたが、ダルクに行き「私もこのように回復できるかもしれない」と思って希望を見い出しました。

その後プログラムを終了し、1年経って沖縄ダルクのスタッフとして派遣されました。スタッフの時は、利用する仲間たちの生活の支援から回復の支援、医療の付き添いなど24時間サポート体制で一緒に住みながら働いていました。

そして3年後に前任者が東京に帰るタイミングで沖縄ダルクの代表になり、一般社団法人沖縄ダルクを法人化しました。

 

一般社会の仕事とダルクの仕事で大きな違いはありましたか?

一般社会とダルクの仕事は全然違いますね。

一般社会で働いているときは、私は本心を言えず自分を傷つけたり自分を騙したりしていました。辛いことも辛いと言うことができませんし、見栄を張ってしまうこともありました。

会社員時代は、成績を上げるためにお客さんに対しても、本当に良いものを提供しているかというとそうでもなかったこともありました。しかし、ダルクでは本当にありのままの自分で生きることができますし、自分の弱さを出してもみんな受け入れてくれます。

人間は自分の弱さとか自分の生きづらさとか、それを正直に話してありのままの自分で生活していくと、人が変わっていきます。人が変わる瞬間を見ることってあまりないですよね。ダルクでは人に必要とされ、愛され、褒められることで、幸せの価値観がずいぶん変わります。

一般社会にいたときはお金を稼いでいい暮らしをして、良いものを食べ派手に遊ぶのが幸せと思っていたので、その価値観がガラッと変わりました。

思い返すと、私は小学生の頃から生きづらさがありました。人からどう見られているかが気になったり、人と自分を比べてしまうことがありました。また親にも褒められることが少なかったです。それがダルクで働くことで、自分は自分で良いんだという安心感につながっていきました。

今までは一般法人沖縄ダルクでどのような活動をしてきたのでしょうか?

一般社団法人沖縄ダルクを立ち上げた当初は、利用者さんが20名ほどでしたが、現在は100名ぐらいいます。元々は男性用の施設でしたが、女性用の施設、そしてLGBTQ+の方のための施設を展開しています。また派生事業としてグループホームの「BIG HUGおきなわ」という会社を作りました。グループホームでは11棟あり、看護師が訪問看護をしています。また、2021年から鹿児島ダルクの代表としても就任しました。沖縄のスタッフを鹿児島へ派遣して運営しています。

 

今後のダルクの未来はどのようなものを描かれていますか?

 「財団法人DARC大きな和」という沖縄の宮古島で2万坪の土地を使って、全国のダルクで回復した方が色々なスキルを学ぶことのできる就労の訓練をするための施設を作りました。農業や酪農、養蜂を体験できたり、アート、芸術、音楽、IT、ソーシャルスキルを学んだりできる学校のような施設です。

ダルクは全国80ヶ所にありますが、出口となる支援がありませんでした。全国から回復された方が一定の期間こちらの施設で過ごすことで、社会に出るためのスキルを学んだり、社会に出る前の訓練をします。

こちらは2022年4月にオープン予定で、現在準備中です。

 

また来春に向けて、ダルクのクリニックを沖縄に作っています。精神科のドクターがダルクの利用者を診る施設です。

今後は回復者たちがしっかりと働ける雇用創出事業を考えていますし、ダルクの利用者たちが表現する活動の場も設けていきたいです。例えば音楽や言葉や芸術など様々な才能を持っている人が多くいるので、プロダクションを作っていきたいです。

今まで依存症や軽度精神症の方は社会的弱者と呼ばれてきました。しかし、依存から回復した人は、人生の荒波の中サバイブしてきました。だから生きる力や人生をよみがえらせる力を持っています。

健常者として生きている人の力になったり希望になったりすることができる方が、ダルクにはたくさんいます。回復者は障害者枠で生きるのではなく、きちんと働き、稼いで、税金を納めて、人間的強者になれる仕組みの事業を組み立てていくのが、これからの私の使命です。

社会的弱者だった我々が人間的強者になる時代が来ました。障害者が健常者を助ける時代になっていると思います。堂々と「世間を助け、社会を助ける」ことを理念にしていきたいと思います。

最後に、おすすめ本はありますか?

渋沢栄一さんの『論語と算盤』です。読みやすいように現代版になっていたり、漫画なども出版されています。

 

『論語と算盤』

ビジネスを成功させる秘訣は論語にある。日本実業界の父が語る必読の名著。大河ドラマ「青天を衝け」 主人公の主著にして不滅の名著!マスコミ各詩誌で話題沸騰。愛され続けるロングセラーの文庫版

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投稿者プロフィール

『社長の履歴書』編集部
『社長の履歴書』編集部
新入社員を含めたフレッシュなメンバーを中心に、出版サポートの傍らインタビューを行っております!

就活生に近い目線を持ちつつ様々な業種の方との交流を活かし、「社長に聞きたい」ポイントを深掘りしていきます。

代表者様のキャリアを通して、組織の魅力が伝わる記事を発信していけるよう、これからも一生懸命運営してまいります!