
今回は株式会社三香堂代表、佐々木 基之氏にお話を伺ってきました。
「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。
ぜひご覧ください!
| 会社名称 | 株式会社三香堂 |
| 代表者 | 佐々木 基之 |
| 設立 | 1954年(昭和29年)3月23日 ※創業1926年(大正15年)3月12日/2026年に創業100周年 |
| 主な事業 | 皮膚用化粧品の製造販売 |
| 会社所在地 | 大阪府東大阪市日下町4-2-59 |
| 会社HP | https://www.opal-co.co.jp/ |
事業紹介をお願いします
弊社は、皮膚用化粧品の製造販売を手がける会社です。来年2026年で、おかげさまで創業100周年を迎えます。
フラッグシップは、美容原液の「薬用オパールR-Ⅲ」です。和漢植物などの成分を1年以上かけて、じっくり熟成・発酵させる。創業当時からほとんど変わらない独自の製法でつくっています。お酒づくりに近いやり方で、熟成が進むほど肌への親和性が高まり、効能も引き出されていきます。保存料や添加物に頼らず、肌への負担を抑えながら効能を高める。ここは創業以来こだわり続けている部分です。

商品はオパールを軸に、基礎化粧品からヘアケア、メイクアップまで幅広く揃えていますが、私たちの中心はあくまでスキンケアです。
もう一つの特徴は、お届けの仕方です。インターネット通販が広がる今も、弊社は全国約620店の販売店での対面販売を続けています。お客様お一人おひとりの肌に合った使い方を、対面でお伝えする。手間はかかりますが、創業以来、私たちが大切にしているスタイルです。
・株式会社三香堂について:https://www.opal-co.co.jp/company/
・100周年特設サイト:https://www.opal-co.co.jp/100th-anniversary/
佐々木社長は三香堂の3代目だそうですね。事業のルーツを教えてください
ルーツは、私の祖父にあたる初代が福島県の会津若松で営んでいた海産物問屋です。会津若松は海から遠い山あいの盆地ですが、そこで海の魚や海藻を扱っていました。
ただ、大正時代は冷凍技術が未熟です。夏場になると、商売を終えた魚がどうしても傷んできます。今の時代なら捨てるところですが、質素倹約の時代でしたから、少し傷んだものはお客様には出さず、家族や従業員で食べていたそうです。その結果、肌が荒れたり鮫肌のようになったりと、皮膚のトラブルに悩む人が出てきました。初代はまだ少年の頃で、幼い妹も同じように肌で苦しんでいたといいます。なんとか治してあげたい。その思いを抱いて育ったことが、すべての出発点になりました。
やがて初代は14、15歳で東京へ奉公に出ます。レート化粧品の代理店に勤め、化粧品づくりの基礎を学びました。生まれ育った会津若松は薬草が豊富な土地で、昔から薬草を煎じて用いる知恵が根づいていました。この薬草の知恵と化粧品の技術をかけ合わせて生まれたのが、美容原液オパールです。
開発した当初は、薬として売り出すことも考えたそうです。実際に大阪へ届け出に向かったのですが、初代はそこで立ち止まりました。薬は、肌が悪くなってから使うもの。けれどオパールは、日頃から使うことで肌のトラブルを未然に防ぐ力もある。それなら毎日使える化粧品として届けたい。そう考えて化粧品として発売したのが、ちょうど100年前のことでした。その後、創業の地である会津若松から大阪へ拠点を移し、事業を本格化させていきました。
そのオパールを、今も対面販売で届けていらっしゃいます。通販が広がる時代に、対面にこだわる理由を教えてください
もともとオパールは、薬として売り出すことも考えた商品です。薬には正しい使い方があります。風邪薬に飲み方があるように、オパールにも適切な使い方をお願いしたい。その思いが根っこにあります。
というのも、オパールは肌を元気にする力が強い分、使い方を誤ると、かえってお客様を戸惑わせてしまうことがあるからです。最近は肌がデリケートな方が増えています。肌のバランスが崩れている方の場合、つけた瞬間にピリッとしみたり、血行が促されてポッと火照ったように感じたりすることがあります。
普通の化粧品なら、しみた時点で使用をおやめいただくのが当たり前です。弊社でも、オパール以外の商品はそうご案内しています。ただ、オパールだけは少し事情が違います。過敏になった肌に最初だけ反応が出ているケースが多く、使い方を工夫すれば問題なくお使いいただけるのです。
たとえば、コットンに水をたっぷり含ませ、そこへオパールを2、3滴垂らし、よく揉み込んでから使う。肌の抵抗力や保水力が弱っているアトピーの方なら、原液のままではなく、ぬるま湯に2、3滴落としてなじませるところから始める。こうした使い方が、少なくとも3通りはあります。
この案内は、文字や画像だけではなかなか伝わりません。お一人おひとりの肌を見ながらお伝えする必要があります。だからこそ、対面でのカウンセリング販売にこだわっています。
正直に言えば、ネットで売ったほうが数字は伸びるのかもしれません。実際、過去にはサンプルを一度に大量にお配りしたこともありました。ですが、どうしても一定の割合で、ピリッとしたけれどこれは大丈夫なのか、というお声が出てきます。きちんとご説明できないまま使っていただくのは、かえってお客様にご迷惑をおかけする。そう考えて、今も対面という形を守っています。
私たちにとって販売店さんは、いわば地域に根ざした「お肌のかかりつけのお医者さん」のような存在です。顔の見える関係の中で、一人ひとりに合った使い方を届けていく。その積み重ねが、オパールという商品を支えてくれていると感じています。
対面や口コミを大切にされる背景には、創業からの理念があるそうですね。改めて、大切にされている経営理念を教えてください
創業者から受け継いだ「世のため、人のため、お役に立つ」という理念です。社会のお役に立つこと。これを何より第一に掲げています。
商品についても同じ考え方です。大きく宣伝して売るのではなく、使っていただいた方の口コミで自然に広がっていく。そのために、確かな効能効果と先進性を兼ね備えた商品をつくる。だから弊社は、基本的に広告宣伝はしていません。
ありがたいことに、2000年頃からは口コミサイトで取り上げていただく機会が増えました。2007年には、アットコスメの美容液部門で第1位をいただきました。その後は殿堂入りの商品として、今もご好評をいただいています。宣伝に頼らず、中身で評価していただく。創業以来の姿勢が、形になった出来事だと感じています。
理念のもう一つの柱は、健康的な美しさ、素肌美の創造です。そしてここに、私が社長になってから社員に伝え続けていることが重なります。人にはそれぞれ、やりがいや生きがいがあります。それを叶える一番の近道は、やりがいの方向を社会貢献の中に見つけることだ。私はそう考えています。
新入社員には、若いのだから何でもやりたいことをやってごらん、と声をかけることがあります。ただ、その方向を間違えると、つまずいてしまう。一生懸命やっているのに、なぜかうまくいかない。これだけ頑張っているのに、周りが応援してくれない。そんなふうに感じて、辞めていく人もいます。理由は、力の入れどころにあると思っています。自分の評価や報酬だけを追いかけていると、周りは、あなたのためだけに頑張ろうとは思ってくれません。けれど、地域のため、会社のため、みんなのために力を尽くす人なら、応援したくなる。同じだけのエネルギーを注いでも、達成のスピードも、たどり着ける高さも変わってくるのです。
この考えは、最初からうまく言葉にできたわけではありません。副社長の頃から、一人ひとりのやりがいや生きがいを育める職場でありたいとは思っていました。ただ、それと「人のため」という社会貢献を、どう一つにつなげればいいのか。長く悩みました。社長になってようやく、個人のやりがいを叶える一番の近道は社会貢献の中にある、と整理できたのです。
ちょうどその頃、「それぞれの最高の人生」をテーマにした本にも出会いました。自分の考えと同じことが書かれていて、励まされたのを覚えています。今も経営の真ん中に置いている考え方です。
ここからは佐々木社長ご自身についてお聞きします。学生時代に打ち込んだことはありますか?
マンドリンです。イタリアの民族楽器で、マンドリンとギターで合奏する部活でした。
中学に上がるとき、何か部活に入ろうとは思っていました。ただ、もともと運動は得意ではありません。当時の運動部はスパルタが当たり前の時代でしたから、その中でやり通す自信がなくて。どうしようかと迷っていたんです。
そんなとき、父から聞いたのがマンドリンの話でした。戦後、マンドリンの音色が人々の心を癒したことがあったらしい。それならと、軽い気持ちで部の扉を叩きました。ところが、入ってみると音楽系も相当に厳しい。運動部だけがスパルタなわけではありませんでした。学校が終わってから夜遅くまで、コンクール前は土日も練習です。それでも結局、中学から高校卒業までの6年間、この部活に打ち込みました。
成果も出ました。高校3年のとき、マンドリンとギターのオーケストラのコンクールで、全国1位をいただいたんです。決して規模の大きな世界ではありませんが、6年間続けてきたことが報われた一番の思い出です。
その経験が、今に活きていると感じることはありますか?
後輩の育て方ですね。この6年の間に、部の指導のあり方が大きく変わっていったんです。
私が入部する少し前、先輩たちの代が全国優勝を果たしていました。厳しい練習で知られた部で、学校が終わってから夜遅くまで、コンクール前は土日も練習づけ。その厳しさが、優勝を支えていた面もあったのだと思います。ところが、その後に部を引き継いだ世代が、この厳しいやり方に疑問を持ち始めたんです。これまで当たり前とされてきた練習を、同じように続けていいのか。そうした違和感が広がり、部は一度、解散同然のところまで追い込まれてしまいました。伝統ある部が、このまま消えてしまうのかと残念でなりませんでしたが、高校に上がる頃には活動が立て直され、部は再開しました。
このとき大きく変わったのが、指導の考え方でした。ただ一方的に厳しくするだけでは、人はついてこない。一人ひとりの人格を尊重しながら導いていく。そういうやり方へと、舵を切ったんです。
実力を生んでいた厳しさが、一方では部を壊しかけ、その立て直しの中で指導の形が変わっていく。わずか6年の間に、私はその移り変わりを身をもって見てきました。厳しさで引っ張るだけが、人を育てる道ではない。この実感は、経営者として人と向き合う今にもつながっていると感じています。
跡継ぎとして育たれたと伺いました。子どもの頃、将来の夢などはありましたか?
正直なところ、夢を思い描く余地はありませんでした。
幼稚園の頃に「大きくなったら何になりたい?」と聞かれて、パイロットと答えたような記憶はうっすらあります。でも、それも一瞬のこと。物心ついた頃には、自分は跡継ぎなのだと、それ以外の道を考えるという発想そのものがありませんでした。もし継がない選択をしようものなら、両親や祖父母、おじやおば、親族一同から猛反対される。下手をすれば勘当されかねない。そんな空気の中で育ちましたから、選ぶ余地などなかったんです。
今でも覚えているやりとりがあります。高校生のとき、当時としては進んだ考えをお持ちの女性の担任の先生が、私にこう尋ねたんです。「佐々木さんは将来何になりたいの?」と。私はきょとんとして、「跡継ぎですが」とだけ答えました。すると先生は、強い違和感を覚えられたようでした。「それでいいの?あなた自身、本当にそれを望んでいるの?」そう問いかけてくださったんです。でも当時の私には、先生が何をおっしゃりたいのか、まるで見当がつきませんでした。それ以外の道なんて、私には存在しない。先生は一体何を言っているんだろう。そんなふうにしか受け取れなかったんです。
このプレッシャーは、身体にも出ました。小学6年の頃には胃を痛めてしまい、ドクターストップがかかったこともあります。記憶に残っているのは、小学2、3年の頃からでしょうか。全国の販売店を回っていた祖父は、たまにしか帰ってきません。それでも顔を合わせれば、私は祖父の前に正座して、経営とはどういうものか、という話をじっと聞かされていました。その光景は、今も覚えています。
学校を卒業されてすぐ、家業に入られたのですか?
いえ、まずはアパレルの会社で1年ほど働きました。跡継ぎとはいえ、いきなり家業に入るのではなく、一度よその会社を経験して学んだほうがいいと、そう考えたんです。自分の力で採用してもらえるところへ、まずは飛び込んでみる。父もそのほうがいいと言ってくれました。
入ったのは、婦人服を扱うアパレル企業です。営業職として、百貨店を担当していました。
ところが1年ほど経った頃、家業のほうで大きな出来事が重なります。私から見て叔父にあたる専務が、病気で亡くなったんです。さらに時を同じくして、会社を支えていた重要な幹部の方が、お一人、お二人と相次いで亡くなられて、父から「戻って仕事を手伝ってくれないか」という話がありました。当初の予定よりはずいぶん早く、結局1年で家業へ戻ることになったんです。
三香堂以外での経験は、今に活きていますか?
活きています。むしろ、社会人として何もわかっていなかった当時の私を、よく採用してくれたものだと思うくらいです。感謝してもしきれませんね。
父は、学生は勉強するものだ、アルバイトなどする必要はない、という考えの人でした。おかげで私は、学生時代にアルバイトを一度も経験していません。働くとはどういうことか、その肌感覚がないまま社会に出たわけです。
当時のアパレル業界は、サービス残業が当たり前でした。中でも私のいた婦人服は催事が多く、商品の出し入れは営業時間が終わってから。毎日が終電ギリギリで、要領も悪く、周りから見れば手のかかる新人だったと思います。
当時、ずっと腑に落ちないことがありました。催事に出す商品には、値札をつける必要があります。担当営業の私が大量の商品をまとめ、値札付けを担う部署へ「お願いします」と持っていく。ところが、その部署を仕切るベテランの女性に、毎回のように怒られるんです。「また持ってきた」と。なぜ怒られるのか、10か月ほどまるで見当がつきませんでした。一方で、2、3年先輩のある方は、同じように商品を持っていっても、すんなり受けてもらえる。汗水たらして頑張っている様子もないのに、です。何が違うのか。これもずっとわかりませんでした。
その答えが見えたのは、辞める少し前のことです。その先輩をよく観察していると、商品を持っていく前に、休憩がてら、ひと手間かけていたんです。値札付けの部署へ内線を入れ、「何時頃に何百個お願いします」と先に伝えていた。たったこれだけのことか、と思いました。私はいつも、何の前ぶれもなく大量の商品を持ち込んでいた。だから怒られていたんです。それからは私も、事前に「今度は数が多いので、何百個お持ちします」と一報を入れるようにしました。すると、あれほど怒っていた方が、退職の挨拶に伺ったとき、こう言ってくださったんです。「あんたも最近、ようやく物事がわかってきたところやったのにな、残念やね」と。
仕事は、自分の都合だけで進むものではありません。後の工程を担う人に、早めに段取りを伝えておく。たったそれだけで相手は仕事がしやすくなり、気持ちよく動いてくれる。前の工程と後の工程をつなぐ、この一報の大切さを、私はこのとき初めて知りました。どの部署であっても、前工程・後工程を意識して動く。その姿勢は経営者となった今にもそのままつながっています。
家業に戻り、やがて経営に携わっていきます。大変だったことを教えてください
私が戻ったのは、後継者として、いわば社長の息子という立場でした。父は昭和の経営者で、見方によってはワンマン、よく言えばカリスマ型。社員から見れば、どこか近寄りがたいところもあったと思います。その厳しい社長の息子が入ってきたわけです。社員からすれば、この息子がどんな人間か、まずわからない。当たり障りのないことは言ってくれても、私が何か勘違いしていても、本当なら一般社員になら注意するようなことを、誰も言ってくれない。みな、気を遣って黙ってしまうんです。
ここに、後継者が陥りやすい落とし穴があります。誰も注意してくれないものだから、自分のやっていることは正しいのだ、と思い込んでしまう。私自身、もともとコミュニケーションが得意なほうではありませんでしたから、なおさらでした。
やがて、周りも少しずつ意見をくれるようになりました。ところが今度は、別の難しさが出てきます。みんなが良かれと思って言ってくれる。直属の上司も、その上の上司も、別の部署の人も、口を出してくる。会社にいた祖母も大変厳しい人で、注意を受けました。父は9人兄弟でしたから、おじやおばも、時にいろいろと言ってくる。ありがたい話ではあるのですが、その一つひとつが微妙に食い違うんです。係長がこうしろと言い、それを聞いていた部長が、いや先ほどの話はこうがいい、と言う。さらにそれを聞いた取締役が、また別のことを言う。結局、何が正解なのかさっぱりわからない。そんな五里霧中の状態が、30代の頃はずっと続いていました。
中でも一番こたえたのは、弟たちが入社してきてからのことです。本来なら、力を合わせて会社をやっていくべき間柄です。ところが、兄弟ゆえの甘えが出てしまう。上司と部下の関係で動こうとしても、兄弟だからと、こちらの言うことを素直には聞いてもらえない。そのうち、社内に派閥のようなものまでつくられてしまいました。良かれと思ってのことだったのかもしれません。ですが、会社の中に派閥ができてしまうと、本当に厳しい。あの頃が精神的には一番しんどい時期でした。
組織のあり方と、兄弟という間柄の難しさ。その2つが入り混じる苦しさを、副社長、そして社長になる過程で嫌というほど味わいました。
その状況を、どう乗り越えていったのでしょうか?
会社の仕事が、あまりに属人的だったんです。そこを一つひとつ、仕組みに変えていきました。きっかけは、副社長の頃に父から任された、社員の人事考課でした。報酬の査定をやるようにと言われ、では評価の書類をと受け取ったのですが、どういう基準で査定しているのかがどこにも見当たらない。父に尋ねても「見たらわかるやろ、日頃から社員を見ていたらわかるやろ」の一点張りです。
評価の基準は、すべて父の頭の中にありました。長年の勘で社員を見てきた人ですから、それで回ってはいたのでしょう。ですが、その勘を引き継げと言われても、引き継ぎようがありません。社員の大切な報酬を、こんな曖昧なまま決めていいのか。そう考えて、副社長の時代から人事考課の評価制度づくりに着手しました。同じことは、製造の現場にもありました。父の頭の中には、現場のやり方が一通り入っている。けれど、手順を書き起こしたものはほとんどない。どこに何があるのかもわからない状態でした。
常務になった頃、私が幼い頃から働いてくれているベテランの女性係長に、現場のやり方を教えてほしい、できれば書いたものをいただけないか、とお願いしに行ったことがあります。ところが、返ってきたのは「大丈夫、ちゃんとやっていますから」という言葉でした。やり方を教えてほしいと食い下がっても、答えは変わりません。三度、四度と重ねるうちに、相手の表情がだんだん曇っていく。「私のやり方を疑っているんですか?」と。結局、何も聞き出せませんでした。
属人的なやり方は、本人にとっては誇りでもあります。だからこそ、外から手をつけるのは難しい。どうしたものかと考えていた頃、時代の追い風になったのがISOでした。世の中でISOが広く知られるようになり、弊社でも導入を決めます。外部のコンサルタントにも入っていただきました。とはいえ、案の定、現場からは反発が出ます。当時、工場を率いていた弟も「そんなものが本当に必要なのか」と聞き入れようとしませんでした。それでも、場数を踏んでこられたコンサルタントの方が「大丈夫、すぐ取れますから」と背中を押してくださって。最終的には、500ページ近いマニュアルを作り上げました。こうしてISOという仕組みを通じて、頭の中にしかなかったものを少しずつ文章にし、どこに何があるかという土台を整えていったんです。
創業100年を迎えて、今後の展望を教えてください
これまでの100年は、化粧品の製造と、それにまつわるサービスをただひたすら守り続けてきた歩みでした。もちろん、健康的な美しさを創造するという軸はこれからも変わりません。化粧品づくりも、それに連なる新しい製品やサービスの開発も、続けていきます。
そのうえで、次の100年、200年を見据えたときに必要だと感じているのが、新しい事業を生み出していく力です。
社会のお役に立つこと。健康的な美しさを創造すること。この理念は、しっかり受け継いでいってほしい。けれど、その理念のうえに何を築くかは、これからの世代が自由に描いていい。私はそう考えています。新しい事業会社をつくり、そこに社長が生まれる。さらにその事業会社からまた別の会社が枝分かれし、そこにも社長が育っていく。そんな広がり方を思い描いています。
目指しているのは、経営者の意識を持った社員が、次々と育っていく会社です。本業を大切にしながら、いろいろな立場の人からアイデアを募り、事業を育てていく。社長が一人ではなく、何人も生まれていけば、それだけ経営は安定していきます。事業を受け継いでいくうえでも大きな支えになるはずです。
ゆくゆくは、そうした会社をまとめるホールディングのような形をつくり、全体で理念を掲げていけたらと思っています。そのうえで、これからの世代に、それぞれの創造性で新しい事業を広げていってほしい。あくまで社会のお役に立つという理念のもとで。それが、私が描いている次の100年の姿です。
最後に、他の経営者におすすめの本を教えてください
山岡荘八さんの歴史小説『徳川家康』です。
会社に入った頃の私は、周りの言葉にすっかり後ろ向きになっていました。みんながそれぞれの都合で勝手なことを言ってくる。なぜ自分ばかりこんなことを言われるのか。良かれと思って言ってくださっているのは、頭ではわかっています。それでも、何を頼りにすればいいのかわからず、被害者のような気持ちになっていたんです。
そんな時期に、父から、これを読んでおけと何冊かの本を渡されました。その一冊が『徳川家康』でした。正直に言えば、全26巻を読み切ったわけではありません。ですが、ほんの1巻、2巻を読んだだけで、自分の物の見方がいかに未熟だったかを思い知らされました。同じ出来事でも、まるで違う捉え方ができる。そう気づかせてくれたんです。あれほど重かった被害者意識が、すっと軽くなっていきました。私の人生観を大きく変えてくれた一冊です。ですから、全部を読み通す必要はないと思います。最初のほうだけでも、得るものは大きいはずです。
同じ山岡荘八さんの『織田信長』も読みました。ただ、こちらはひと言お伝えしておきたいことがあります。織田信長は、最後に部下の明智光秀に討たれてしまう。この本だけを読むと、その生き方に引っ張られてしまうかもしれません。あくまで私の受け取り方ですが、山岡荘八さんが信長を描いたうえで、家康を26巻にわたって書いたことには、きっと意味があるのだろう。そんなふうに感じています。
『徳川家康(1) 出世乱離の巻』山岡 荘八(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061950231
『織田信長(1) 無門三略の巻』山岡 荘八(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/406195010X
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企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。
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