
今回は東京・西新宿の「鮨いちこし」店主、田場壱盛氏にお話を伺ってきました。
「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。
ぜひご覧ください!
| 会社名称 | 鮨いちこし |
| 代表者 | 田場壱盛 |
| 設立 | |
| 主な事業 | 江戸前寿司(カウンター6席・おまかせコース) |
| 会社所在地 | 東京都新宿区西新宿 |
| 会社HP | https://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13282810/ |
壱盛さんの学生時代から振り返っていければと思います。物心ついた頃は、どんなお子さんでしたか。
生まれも育ちも沖縄です。どういう子だったかというと、特にこれといって何かに打ち込むタイプではなかったですね。周りが、ちょっとやんちゃな子たちが多い環境でした。まあ、それなりの毎日でしたよ(笑)。
スポーツも、小学4年生から中学3年生までサッカー部にいましたけど、「特に本気で」という感じではなかったです。中学もそのまま地元に上がっていきました。振り返ってみると、僕の転機はたぶん高校生からじゃないかなと思っています。
高校で、何かが変わったのでしょうか。料理の道に進むきっかけも含めて教えてください。
工業高校の電気科に行ったんですけど、電気関係がまったく楽しくなくて。電気の仕事をされている方には失礼なんですけど、「これは向いていないな」と感じたんです。じゃあ自分は何が向いているんだろうと考えたときに、当時アルバイトをしていた沖縄の居酒屋さんで、料理をやっている人の姿を見て、「なんかやってみたいな」と思ったんですね。それがきっかけでした。
なぜ料理に惹かれたのかというと、祖父が料理人だったんです。おじいちゃんの影響も、少なからずあるのかなと自分では思っています。
高校生活はというと、もう学校には行かずに、夜までバイトをして、学校では寝る。そんな生活をずっと続けていました。バイトの時間が一番楽しくて、学校はむしろつまらないから、ただ行っていただけ。寝る場所で、ご飯を食べる場所、みたいな感覚でしたね。それでも親は卒業してほしかったので、単位だけは取りに行って、無事に卒業はしました。
高校3年生の進路選択は、どうされたのですか。ご両親の反応も気になります。
僕はもう決まっていたんです。元々アルバイトをしていたところに、社員として入る、と。沖縄では結構大きい会社だったんですよ。ただ、学校にはそのことを伝えていなくて。「就職どうするんだ、進路どうするんだ」と言われていたんですけど、この先生たちに何を言っても無駄なんだろうな、夢って応援されないものなんだろうな、と思いながら、ひたすら無視し続けて卒業しました。
両親は「お前が好きなようにやればいい、学校さえ卒業すれば」という感じでした。実は大学に行こうかなとも思ったんですけど、そこは反対されて。「ただみんなが行くから、という雰囲気なら、やめてくれ」と。目的もなく行くなら、お金は出さない、と言われたんです。それで、大学は諦めた部分もありました。18歳の頃ですね。
高校卒業後、どのように寿司の道へ進んでいったのでしょうか。
まず、就職した会社のキッチンで1年間ほど学びました。ただ、学んでいくうちに「もっともっと」となってきて。それで調べて見つけたのが、3か月で寿司職人を育成する養成学校だったんです。当時、ホリエモンさんが「寿司職人が何年も修行するのは無駄だ」というような発言で話題にしていた、あの学校ですね。魚を学びたくて、そこに行くことにしました。
面白いのが、大学の学費は出してもらえなかったのに、この学校のときは親が負担してくれたんです。自分で調べて「ここまでこう行くから」と説明したら、出してくれた。ここは親として一貫していたなと感じましたね。なんとなく行くのはダメだけど、目的意識を持って「これをやるんだ」というときには、ちゃんと出してくれる。本気が伝わったんだと思います。3か月で確か100万円近くかかったので、「頑張らないといけない」と身が引き締まりました。
その3か月は、大変でしたけど、僕にとってはすごく楽しい、充実した時間でした。周りは料理未経験の人がほとんどで、僕は当時、本気そのものでしたね。先生方が朝、市場に仕入れに行くんですよ。本当は生徒はついてくるなという話だったんですけど、僕は毎回ついていっていました。最初はみんなついてきていたんですけど、最後は僕と先生一人だけ、みたいな感じになって。目利きも学べましたし、それ以外の、その方から聞ける話のほうが大きかったかもしれません。あれはでかかったですね。
学校に通いながら、お店でも修行されていたそうですね。どんな日々でしたか。
「鮨 千陽(ちはる)」という、大阪・福島の江戸前寿司のお店です。飲食人大学の卒業生だけでやっているお店で、学校に通いながら、そこでバイトをしていました。10年ほど前の話ですね。
本当にいろいろやらせてくれるお店で。「飯炊き3年、握り8年」みたいな時代はもう終わった、とにかく実践だ、という職場だったんです。裏で余ったシャリで握ったり、一人前が何グラムかを測ったり。そういうことをずっとやっていました。1階7席、2階6席で、1階は3回転、2階は2回転する。とにかく数をこなさなきゃいけない、というのが強かったんです。
当時は、会話らしい会話は僕の中でまったくなくて。ひたすら作業、握りをこなす、という感覚でやっていました。今考えると、まだまだ小僧が寿司を握っているような感じでしたね。
お店ではコンテストにも出場し、優勝されたと伺いました。
「食の都・大阪グランプリ」という、関西でも最大級の料理コンペティションです。2017年、和食・日本料理部門で優勝させていただきました。史上最年少で、当時20歳でした。料理を本格的に始めて、まだ日が浅い時期です。
この大会には、ホテルの料理長さんや、自分で懐石のお店をやられている方も出ていて。エレベーターで一緒になったとき、「お前なんか優勝できないよな」というようなことを言われたのを、今でも覚えています。年齢的にも「20歳のひよっこが」と見られていたと思うんですけど、結果が出ちゃえば、もう言い返す言葉はないですからね。あのときは本当に良かったです。
しかも、優勝したその日が、母の誕生日だったんですよ。まさか、と思いました。飲食人大学の学費も親に出してもらっていたので、しっかり恩返しができたな、という気持ちもありましたね。
優勝の後は、どのようなキャリアを歩まれたのですか。
そのまま大阪で働いていたんですけど、そのお店がシンガポールにも出店していて。シンガポールにいた方が韓国の新店に移ることになり、その入れ替わりで、僕が大阪からシンガポールに行くことになったんです。22歳くらいのときですね。
しかも、いきなりヘッドシェフをやらせていただきました。今思えば「もっとできたのにな」と思う部分もあるんですけど、当時それを任せてもらえたのは、本当にありがたかったです。「飯炊き3年、握り8年」だと一人前まで11年、11歳から修行しないと22歳でヘッドシェフにはなれない計算になりますよね(笑)。この業界に入ってから、本当にポンポンポンと進んでいきました。
食材は、現地ではなく全部、豊洲から運んでいました。このやり取りも、僕にとってはすごく勉強になりましたね。シンガポールには、2019年まで、1年半から2年くらいいました。23、24歳の頃です。
帰国後、すぐにお店を開かれたのですか。
いえ、まだでした。東京オリンピックを見たくて、自分の意思でシンガポールを離れて東京に来たんですけど、まずやったのは豊洲市場で働くこと。仲卸ですね。
自分でお店をやろうと思っていたんですけど、いざ日本に帰ってお店をやると考えたとき、「魚の仕入れの繋がりがないな」と気づいたんです。シンガポールでも仕入れには関わっていたんですけど、一部しか知らなかったので、もっといいところがあるはずだと。握りは賞を取るくらいまでいっても、仕入れのところが弱いと、将来お店をやるのは難しいと感じたんですね。魚がどうやって来ているのか、その雰囲気も含めて全部知りたかった。
ただお金を払って魚を買うだけだと、ありがたみがないなと感じるタイプなんですよ、変なところで。器や湯飲みも、一度自分で作りに行ったりするんです。「これってどれくらい大変な作業なんだろう」というのを知ると、やっぱり離れがたくなるじゃないですか。ストーリーがあると。そういうのを結構、大切にしています。仲卸は1年くらいやって、それでいよいよ、自分のお店へという流れになりました。
ご自身のお店をオープンするまでの道のりを教えてください。物件選びも大変だったのでは。
25歳のときに物件を借りて、26歳でオープンしました。2023年の4月ですね。今、4年目に入ったところです。
物件選びは、やばかったですね。コロナ明けだったので。ちょうど、みんながまたお店を探し始めているタイミングだったんです。もう一つ手前の時期だったら全然空いていたのに、コロナ明けで、リスクを背負いたくない小さいお店が、一気に埋まっていって。空いているのは広い物件ばかりで、8割くらいがそう。残りの2割にすぐ連絡を取って、内見に行って、という感じで、半年くらい探しました。
実は、最初は銀座の物件に申し込んでいたんです。でも、審査に落ちてしまって。そのビルには444社くらい応募があって、最後の4社まで残って、社長さんと面談もしたんですけど。やっぱり1店舗目で信頼もないということで、見送りになりました。悔しかったですけど、結果的には今の場所に落ち着いて、良かったなと思っています。
今の西新宿のお店は駅から少し歩きますが、立地について不安はありませんでしたか。
そうなんですよ。近くに西新宿駅、都庁前駅、西新宿五丁目駅と3つ駅があるんですけど、全部、徒歩5分以上かかるんです。6分、7分くらい。そこは最初、ネックでした。
周りにも「そこは無理だよ」って言われましたね。よく飲み屋で会っていた、不動産をやっている知り合いにも「あそこはダメだ、お客さん来ないよ」と。でも、そういうことを言う人に限って、来ないんですよ(笑)。口ばっかりの人って、そういうものだなと、ここでわかりましたね。やってみないとわからないのにな、と思いながら聞いていました。
資金は、出資してくださる方がいて。その方に出資していただいてオープンして、今、返済しているという形です。腕を見込んで放り込んでくれた、というか。ありがたかったですね。
オープンしてからの3年、どのように固定客を増やしていったのですか。
最初は赤字続きでした。固定客がいなかったので。ただ、広告は一切やっていないんです。僕、意外と人懐っこいというか、人が好きなタイプで。お店の周りのお店に、自分から飲みに行くんですよ。そこで「こういうお店をやっています」と伝えて、仲良くなって。そこから、紹介の紹介、紹介の紹介、という感じで広がっていきました。場所のデメリットを、足で埋めていった感じですね。
そうしているうちに、ある日、僕の携帯のメッセージだけでは予約が回らなくなって。ダブルブッキングが増えてきて、寝られなくなってきたんです。それで食べログと契約して、「半分は食べログに行ってくれ」と。集客というより、予約管理のためですね。何度も来てくださる方とは携帯でやり取りするんですけど、そこを分けていった、という感じです。今は、スタッフにSNSが得意な子がいるので、暇な日にInstagramに写真を上げてもらったりもしています。ありがたいことに、今は予約が取りづらい状態になってきました
最後に、今後のことを伺えればと思います。多店舗展開する寿司職人もいれば、一店舗を長く守る方もいます。壱盛さんが目指す未来は、どういうものでしょうか。
最近、考え方が少し変わってきたんです。「目指す未来」というよりも、日本料理という大きな文化、その一部である寿司を、次の世代に伝承していける一人になりたい。今は、それをすごく思っています。
昔ながらの教育って、わーっと怒ってしまう人もいるじゃないですか。でも、それだと伝承できていかないんですよね。今の子は、怒られるとすぐ辞めてしまったりする。それだと、下の子たちに技術が受け継がれていかない。だから、新しい教育のスタイルも考えるようになりました。まずは、自分の持っているものをもっともっと磨き上げて、その次の世代にバトンタッチできる、紡いでいける人になれればいいな、と。お弟子さんという形がベストですね。その人が、培った技術をもとに、また新しいお店を開いていく。そういう流れを、途切れさせたくないんです。
AIがすごいので、僕らの技術職も、いつ取られるかわからない部分はあると思います。でも、昔ながらの技法をやっている職人さんは、どんどんいなくなっていく。だからこそ、そこを大切にして仕事をしていければいいのかな、と思っています。
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