茨城乳配株式会社 吉川氏

今回は茨城乳配株式会社代表、吉川 国之氏にお話を伺ってきました。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

会社名称茨城乳配株式会社
代表者吉川 国之
設立1965年8月
主な事業冷凍・冷蔵食品の輸配送、共同配送、冷凍冷蔵倉庫・保管、物流コンサルティング
会社所在地  茨城県水戸市千波町1821-1
会社HPhttps://nyuhai.net/

事業紹介をお願いします

茨城乳配株式会社は、冷凍・冷蔵食品に特化した物流会社です。1965年に茨城県水戸市で設立し、現在は関東に8拠点を構えています。内訳は営業所が5拠点、そこに物流センターを加えた形です。社員数は子会社まで含めて380名ほど、トラックは240台を保有しています。

私たちが運んでいるのは、暮らしに欠かせない食品です。冷凍・冷蔵・ドライという3つの温度帯に対応し、食品メーカーや卸・小売、外食企業から商品をお預かりしています。ただ運ぶだけでは終わりません。冷凍冷蔵倉庫での保管、検品、ピッキング、配送まで一貫してお引き受けできる体制が、事業の土台になっています。大手企業から、地元で野菜を作っている農家の方まで幅広くお取引いただいています。

長年積み上げてきた物流のノウハウを活かし、近年は食品物流の最適化やコンサルティングにも取り組んでいます。

御社ならではの強みを教えてください

茨城県と栃木県に関して言えば、冷凍・冷蔵食品の共同配送網が一番の強みです。私はこれを「食品乗合バス」と呼んでいます。

例えば、少ない量の商品を朝8時までに数ヶ所に届けたい。そうした要望に一社ずつ貸し切りのトラックで応えようとすると、コストがものすごく高くついてしまいます。そこで、同じ思いを持つ企業の荷物をつなぎ合わせ、1台のトラックにまとめて運ぶ仕組みをつくりました。単独では配送が難しい企業でも、この網に乗れば商品を届けられます。

この仕組みを支えているのは、関東に置いた8つの拠点です。茨城、栃木、千葉、神奈川に拠点があるからこそ、都市部の企業が抱える地方配送の課題にも応えられる。積載効率が上がれば走るトラックの数は減り、結果として二酸化炭素の排出削減にもつながります。効率と環境の両方に貢献しながら、多くの商品を多くの人のもとへ届ける。それが、私たちの果たしている役割です。

共同配送サービスについて:https://nyuhai.net/group-work/

事業面以外にも、強みだと感じている部分はありますか?

共同配送は事業としての強みですが、似た仕組みを持つ会社は他にもあります。私たちの本当のストロングポイントは社員だと思っています。

当社には「性格の良い会社を創る」というミッションがあります。物流会社でありながら、志向しているのは人づくりの会社です。人柄の良さ、人間性を磨き続けていく。そこを会社の方向性として掲げています。

物流業界には、意外とこうした方向を向いている会社が少ない。だからこそ差別化ができているのではないかと感じています。多少なりとも自信を持てる部分ですし、結果として定着率95%という数字にもつながりました。人が定着しない構造が業界の課題とされる中で、この点は今の当社を支える強みになっています。

現在、特に力を入れていることを教えてください

採用です。定着率は比較的高い水準を保てているものの、人手はまだ足りていません。3年後、5年後の売上を見据えた事業計画がある一方で、増員は思うように進んでいないのが実情です。だからこそ、採用の部分は強化していきたいと考えています。

もっとも、人を集めることだけが目的ではありません。当社が求めているのは、性格の良い会社を一緒につくっていける仲間です。数を追うために間口を広げるのではなく、私たちが何を大切にしている会社なのかを知ってもらったうえで、来ていただきたい。採用ページには社員の声も載せていますので、興味をお持ちの方はぜひご覧いただけたら嬉しいですね。

茨城乳配採用サイト:https://saiyou.nyuhai.net/
先輩社員インタビュー:https://saiyou.nyuhai.net/interview/

ここからは吉川社長ご自身のことについて伺います。仕事以外で打ち込んできたことがあれば教えてください

熱しやすく冷めやすい性格なので、いろいろとやりました。学生時代はスポーツをしていて、高校時代はソフトボールで茨城県の国体代表にもなっています。ただ、自分の人生の価値観に組み込まれるほど取り組んだものと言われれば、やはりスキーですね。

きっかけは子どもの頃でした。年に何回か、親に連れていってもらっていたんです。『私をスキーに連れてって』という映画があって、大学生の頃はちょうどスキーブームでした。友達と遊びで通っているうちに、だんだん本気になっていきました。友達よりうまくなりたい、女の子にモテたい。若さゆえのいろいろな欲が出てきたんですね。やがてスキー検定1級や指導員といった、目に見える成果を求めるようになりました。そこからはのめり込む一方です。

社会人になってからは選手として大会にも出るようになりました。仕事かスキーしかやっていないというほど打ち込み、40歳を過ぎるまで続けています。引退したのは、20歳くらいの子と一緒に練習するようになって、あまりにも年の差を感じてしまったからです。

大会に本気で挑もうと思われたのは、いつ頃だったのでしょうか?

20代後半ですね。社会人のスキークラブに入っていたんですが、初心者でクラブに入会して腕を磨いていく「生え抜き」が多い中で、私はよそでスキー検定1級を取ってからの入会でした。いわばよそものです。そのため、他の会員から悪口を言われることが何度かありました。

それなら見返してやろう、と思いました。同じ大会に出れば優劣がはっきりつくだろう、そんな気持ちで出場したのがきっかけでした。クラブの人たちよりは良い順位を取れて、溜飲は下がりました。ところが、大会に出て、茨城県内だけでも自分よりすごい選手がいくらでもいるということを知ったんです。そこからが本当の始まりでした。

上には上がいて、その一人ひとりを越えていかなければならない。最初は自信過剰なところもありましたから、自分の足りなさや至らなさを一つずつ受け入れていく時間でもありました。今思えば、これがずいぶんと勉強になりました。

行きたい場所にたどり着くために、諦めなければならないものがある。サボりたい気持ちと葛藤しながら、それでも続ける。ストイックになりすぎてしまう一面はありますが、スキーで身についたこうした感覚は、もしかすると今も役立っているのかもしれません。なので、打ち込んだことと言えば、真っ先に思い出すのはやはりスキーです。

経営者になりたいという考えは、子どもの頃からありましたか?

ゼロではなかったですね。小学生の頃は今ほど個人情報に厳しくない時代で、名簿に親の職業が載っていたんです。私の欄には「物流会社の社長」と書かれていました。すると友達が「お前んち社長なのか、すげえな」と言ってくれる。その反応がうれしくて、社長=すごい人、というイメージを持ったんですね。将来は社長になりたいなと少しだけ思った時期がありました。

とはいえ、子どもの憧れは移ろいやすいものです。高学年になると興味はどんどん変わり、『キャプテン翼』が流行ればサッカー選手になりたくなる。社長も、そうした憧れの職業の一つにすぎませんでした。仕事の大変さもかっこよさもわからないまま、今でいう大谷翔平選手をすごいと思うのと同じ感覚だったのでしょう。

ですから、本気で社長になりたいと思っていたわけではありません。友達に「いいな」と言われて、ちょっとその気になった。その程度のものでした。

進路はどのように決まっていったのでしょうか?

私は3人きょうだいの末っ子で、兄が4つ上、姉が2つ上です。この兄と姉が優秀でして。2人の進路が決まった段階で、末っ子の私が家業を継ぐという空気が自ずとできあがっていきました。

そもそも当社を創業したのは、父の兄にあたる伯父です。父が伯父と一緒に立ち上げ、社長は伯父が務めていました。ただ、若くして会社を興したものの、それほど経たずに肺がんで亡くなってしまって。借金が残る段階で、父が社長を引き継ぎました。

私の兄は、その伯父にかわいがられていました。だからこそ、兄は伯父の命を奪った癌を治すために医者になると決めたそうです。高校で文理を決める段階で「医者になる」と宣言し、両親は喜びました。まさか自分の子どもが医者になるとは思っていませんでしたから、自慢の息子ができあがったわけです。その2年後には、姉がデザイナーになりたいと言い出し、こちらも希望が通りました。

私はまだ、やりたいことが見つかっていませんでした。中学2年生のとき、親に正直に言ったんです。「今はやりたいことがないけれど、いつか見つかったら、それをやってもいいか」と。返ってきたのは「そんなのダメだ」という言葉でした。子どもは3人、上の2人が決まった以上、最後はお前がやるしかない。私には職業を選ぶ自由がないのだと、そのとき突きつけられました。

大学卒業後は、どのような道に進まれたのでしょうか?

損害保険会社に入りました。ちょうどバブルの時期で、やりたいことがあったわけではありません。休みが取れて給料も良さそうだから、という理由で選びました。

心の底には、家業への迷いがずっとありました。転職しようと思えばできたのですが、どうしても親のことが気になってしまう。私がやらなければ、継ぐ人は誰もいない。子どもの頃、会社の社員の方によく遊んでもらった記憶もありました。年末にお正月のお供え餅を一緒についたりして、かわいがってもらったんです。あの人たちはどうなってしまうんだろう、と。

家業は、やりたい仕事ではない。それでも、やらなかったら自分はきっと後悔する。そんな思いから、家業に入る覚悟を決めました。

家業に入られた当初は、どのように仕事と向き合っていましたか?

正直に言えば、身が入りませんでした。やりたくて入社したわけではなく、継ぐしかないという入り方でしたから。メインはサーフィンやスキーで、仕事はとりあえず会社に行っていればいい、そんな感覚だったんです。

今思えば、典型的な社長のバカ息子だったと思います。「経営者を志した理由」といったものは、この頃の私にはありません。会社を継ぐこと自体が目的で、その先に何を成したいのかは、まるで見えていませんでした。

仕事への向き合い方が変わる「きっかけ」の出来事を教えてください

東日本大震災です。あれは私にとって、大きな転機になりました。

地震が起きたとき、私は会社で仕事をしていました。壁が全部倒れてしまうほどの揺れで、会社もかなり被災しています。当時の私はまだ副社長でした。近所に住んでいた私は、家族に連絡を入れて会社に泊まり込みました。

当社は夜から朝にかけて働くメンバーが多いのですが、その晩、驚くことにみんな出社してきたんです。道路が車で走れるかどうかもわからない状況でした。冷凍冷蔵の仕事ですから、停電では冷蔵庫も使えず、荷物を運んでも引き取ってもらえません。今日は誰も来ないだろうと思っていたのに、来たんです。

しかも、歩きや自転車で来た者が圧倒的に多く、理由を聞いて私は胸を打たれました。震災は3月でまだ寒い時期でした。「停電の中に奥さんや子どもを残している。だから自家用車を家に置いてきた」と言うんです。エンジンをかけておけば車内は暖かいし、テレビも映る。家族を守るために車を置き、自分は自転車で会社に来た。そういう社員が何人もいました。

会社よりも大切な家族を、どうなるかわからない状況で車に残してまで、みんな会社に来た。その姿を見たとき、半身で仕事をしている自分が恥ずかしくなりました。

そのとき、ご自身の中で何が変わったのでしょうか?

そこからは、スキーもサーフィンもやめました。46歳で経営大学院に入り直し、MBAを取得しています。それまでは根拠もなく経営ができると思い込んでいましたが、いざとなると何ひとつわからない。それなら定石を学ぼうと、会社の変革に正面から取り組むようになりました。あの震災で社員の姿を見たからこそ、すべてが変わっていったのだと思います。

経営に向き合う中で、印象に残っている取り組みはありますか?

理念づくりです。当社にはもともと理念がなく、ホームページもありませんでした。経営を学ぶ中で、理念は本当に大事だと気づいたんです。

人はそれぞれ生まれも育ちも違い、価値観も一人ひとり異なります。その人たちが会社という一つの箱に入って働けば、当然、価値観はぶつかります。拠りどころになる軸がなければ、会社はまとまりません。理念とは、いわば会社にとっての憲法のようなものだと思うんです。

どうしても譲れない思いもありました。社員が自分の奥さんや子どもに、胸を張って語れる会社にしたかったんです。物流、特にトラック輸送は当時、業界としてあまり前向きに語られることがありませんでした。きつくて給料も安い、子どもには継がせたくない。そんなふうに言われがちな仕事だったからこそ、家族に自信を持って話せる会社にしたい。その思いが根っこにありました。

こうして掲げたのが、「性格の良い会社を創る」という理念です。

理念を浸透させる過程では、どのようなご苦労がありましたか?

理念は、作って終わりではありません。むしろ、掲げてからのほうが大変でした。

これまで理念のなかった会社に、あとから軸を持ち込むわけです。当然、合わない人も出てきます。そんなものは聞いていない、という社員がいるのも当たり前でした。ワクワクした場面ばかりではなく、ヒリヒリするような経験の連続です。ただ、その一つひとつが、今では自分の財産になっていると感じています。

共同配送を立ち上げたことも、直近でM&Aに踏み切ったことも、やってきたことはいろいろあります。ただ、施策の一つひとつはそれ自体が目的ではありません。社員が安心して働ける会社にするには規模の拡大が必要で、そのための手段にすぎないんです。

大事なのは、その上にある理念のほうです。ここを守り続けることが一番難しい。何を大切にする会社なのか、その軸は自分の中でもぶれてしまう。だからこそ、掲げた理念に恥じない経営ができているか、今も自分に問い続けています。

今後の展望を教えてください

私たちの商売は、人が生きるために欠かせない食のインフラです。景気が良くても悪くても、お腹は空きます。お店におにぎりが並んでいるのは、多くの人にとって当たり前の光景でしょう。でも、その当たり前は、誰かが裏で支えているから成り立っています。

幸せというのは、当たり前になると気づきにくいものです。私たちは、人が気づかない幸せをこっそり守っている。例えば山間部で、お年寄りだけが暮らす集落があるとします。そういう場所にも食品は届けていかなければなりません。ライフラインを守る仕事である以上、途切れさせるわけにはいかないんです。

だからまず目指したいのは、この仕事の意義を社員自身が実感できる会社です。自分はすごくいい仕事をしているんだと、胸を張れる。そういう会社をつくりたい。食のインフラを守るプレーヤーとして地域に貢献し、会社としての存在感を高めていく。その先にこそ、社員の誇りがあるのだと思います。

会社としては、どのような姿を目指しているのでしょうか?

いつか誰かが、「この会社を継がせてください」と言いたくなる。そんな会社にしたいと思っています。継ぐのは自分の子どもではないかもしれません。それでも、心から継ぎたいと思われる会社を自分の手でつくりたいんです。

世の中では後継者不足が言われ、会社を投げ売りのように手放す例もあります。ただ、私はこう思うんです。誰かが継ぎたいと思える会社を、努力してつくってきたのか。そこから逃げておいて、いざ継ぐ人がいなくて困ったと言うのは、経営者自身の責任ではないか、と。だからこそ、魅力的だ、やってみたいと思われる会社をつくることが、残りの会社人生の大きな目標です。

そのために掲げているのが、性格の良い社員を一人でも多く増やすことです。性格の良い人が増えれば、その家族も自然と良くなり、周りにも同じような人が集まってくる。それは巡り巡って、社員の幸せにつながっていくはずです。もちろん、理想だけでは会社は続きません。実現するには売上100億円は当然に必要ですし、利益もきちんと出していく。そのうえで福利厚生や教育にお金を使い、この会社にいれば安心だと思える会社にしていきたいと考えています。

「社長の履歴書」の読者へのメッセージをお願いします

この1年、自分を見つめ直す時間が多くありました。そこで気づいたことがあります。

私はずっと、承認欲求の強さや、父や兄姉へのコンプレックスをネガティブなものとして捉えてきました。人より優位に立ちたい、目立ちたい。そうした気持ちが先に出てしまうところが、自分の良くない部分だと思っていたんです。

でも、それがあったからこそ、ここまで来られたのも事実です。過去にはうまくいかなかったことも、後悔もたくさんあります。それでも、いろいろなことがあったからこそ今の自分ができている。だから、ダメな人生だったとは思っていません。読者のみなさんにも、この一点だけはお伝えしておきたいですね。

最後に、おすすめの本を教えてください

2冊あります。

1つ目は、中村天風さんの『運命を拓く』です。心の持ち方次第で人生は大きく変わる。そのことを学べる一冊です。

2つ目は、デール・カーネギー氏の『人を動かす』です。リーダーシップの基本を、あらためて確認できる本です。

『運命を拓く 天風瞑想録』中村 天風(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4062637391/

『人を動かす』D・カーネギー(著)、山口 博(翻訳)
https://www.amazon.co.jp/dp/442210134X/

投稿者プロフィール

『社長の履歴書』編集部
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企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。

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