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株式会社丹渓代表 王 一鳴氏

  • 10/16/2025
  • 10/16/2025
  • 仕事
  • 7回

今回は株式会社丹渓代表、王 一鳴氏にお話を伺ってきました。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

 

会社名称 株式会社丹渓
代表者 王 一鳴
設立 2024年5月15日
主な事業 紹興酒の輸入・販売
会社所在地 105-0004 東京都港区新橋1-18-2 明宏ビル別館7階
会社HP https://tankei1327.jp/

 

事業紹介をお願いします

株式会社丹渓では中国・浙江省義烏市で造られている「丹渓(たんけい)」と呼ばれる黄酒(こうしゅ)の輸入・販売を行っています。

 

日本では黄酒よりも「紹興酒」という呼び名の方がなじみ深いかもしれませんが、私たちが扱っている丹渓は、一般的な紹興酒とは一線を画す特徴を持っています。

最大の特徴は、浙江省・金華地域に伝わる伝統製法で造られている点です。福建省や広東省など南方でも主流の「紅麹(べにこうじ)」を用いることで、香り高く、体にもやさしい酒に仕上がります。

さらに、丹渓の大きな魅力はその圧倒的な歴史の長さにあります。起源は1327年。漢方医学者・朱丹渓が「体に良い酒」を目指して紅麹を使い始めたのがはじまりで、その後22代にわたり同じ一族がこの酒造りを継承してきました。現在も当主たちは当時と変わらない製法を守り続けています。このように一族による連綿とした酒造りは中国でも極めて珍しく、まさに唯一無二の文化的価値を持つ酒といえます。

味わいもまた、長い歴史に裏打ちされた深みがあります。多くの紹興酒を飲んできた私自身、この丹渓を口にしたとき「紹興酒はこんなにおいしいものだったのか」と衝撃を受けました。特に紅麹の質が非常に高く、他の地域の酒とは一線を画す芳醇さがあります。

 

まとめると、「丹渓」の強みは次の2点です。

  1. 22代にわたる歴史と継承 — 同じ一族による醸造が続く稀有なブランド
  2. 紅麹による独自の風味 — 他の紹興酒にはない、深く香り高い味わい

丹渓は、ただの酒ではなく、「時と文化を味わう酒」です。長い歴史がそのまま一杯に凝縮された、特別な黄酒といえるでしょう。

 

 

丹渓の味や風味について詳しく教えてください

丹渓の味わいが他の紹興酒と大きく異なる点は、そのシンプルで純粋な原料と香りの豊かさにあります。

丹渓は「紅麹」と「もち米」、そして水だけで造られており、非常にピュアで雑味のない味わいが特徴です。口に含むとすっきりとした甘みと深いコクが広がり、他の紹興酒とはひと味違う上品な印象を受けます。

さらに、この酒の大きな魅力のひとつが香りです。一般的な紹興酒よりも香りが繊細で、華やかに立ち上るのが特徴的です。実際に飲み比べてみるとわかるのですが、従来の小さなグラスで飲むよりも、ワイングラスを使ったほうが香りがしっかりと引き立ち、味の余韻も長く感じられます。

現在、私たちがおすすめしている飲み方は、7〜15℃に軽く冷やして、ワイングラスで楽しむスタイルです。伝統的な徳利や小さな杯で飲むのももちろん良いのですが、ワイングラスを使うことで香りがより開き、味の立体感を楽しむことができます。

これはヨーロッパのワイン文化と少し似ています。ワインも昔からこの形だったわけではなく、長い歴史のなかでグラスの形状が研究され、最も香りと味わいが引き立つスタイルが確立されてきました。紹興酒にも同じように、グラスを変えることで新しい楽しみ方が広がるはずです。

日本酒もグラスによって味の印象が変わるように、丹渓もグラスの選び方ひとつで印象がまったく変わります。伝統的な酒を現代的なスタイルで楽しむ。それが、丹渓ならではの味わい方です。

 

個人の方でも、飲食関係の企業様でも1本からご注文いただけますので、ぜひお気軽にご連絡ください。

https://tankei1327.jp

 

ここからは王社長のことをお聞かせください。学生時代に日本に留学されたとお伺いしましたが、どのような経緯だったのでしょうか?

1987年に中国の大学に入学しましたが、私たちの世代の多くが「海外に出よう」という雰囲気に包まれていました。そのため、3年間はその大学に通っていましたが、たまたま日本に知人がいたこともあり、東京で日本語の勉強を始めました。とはいえ、語学は1〜2日で身につくような簡単なものではありません。最初の頃は、日本語の勉強を続けながら「自分はこれから何をやりたいのか」「何を学ぶべきなのか」とずいぶん悩んでいました。

そんなとき、ある本を読んで「学問の基礎は文学・哲学・法学・美学の4つである」という一節に感銘を受け、自分なりに考えを整理していきました。

美学は建築や芸術に関連する分野ですが、自分には少し縁遠く感じました。文学は好きでしたが、それだけで生活していくのは難しいだろうと思いました。哲学は興味深いですが、あまりにも抽象的で難解すぎます。そこで残ったのが法律でした。法律には実用性があり、社会の中で役に立つ知識になると感じ、慶応大学法科大学院に進みました。大きな計画があって選んだわけではなく、考え抜いた末に自分にとって最も現実的で意味のある選択として法律にたどり着いたのです。

 

就職先に電通を選ばれた経緯を教えてください

恩師に勧められた、というのが正直なところです。

教鞭をとりながら、実際に弁護士としても活躍されていた堀口先生に可愛がっていただき、授業だけなく、先生の法律事務所でもアルバイトをさせていただきました。

進路について相談したとき、「ビジネスの世界は法律よりずっと面白いぞ。どうせなら法律を分かっているビジネスマンになったほうがいい。法律だけをやっていると、俺みたいになってしまうからな。弁護士は50歳を過ぎてもなれる。君はせっかく日本に来たんだから、日本の企業で仕事をして、いろいろ経験してみろ」とアドバイスをいただきました。その言葉がきっかけで私は就職活動を始め、コンサルティング会社、外資系など複数社から内定をいただきました。

そして、最終的には先生の勧めもあって電通を選びました。

 

電通で働かれていた時のご経験を教えてください

電通での経験は、本当にたくさんあります。

私は入社後、マーケティング、営業、グローバルメディアの3部署を経験しました。マーケティングの仕事を担当していたとき、NTTの公衆電話キャンペーンのプレゼンがありました。ちょうどインターネットが普及しはじめた時期で、私は資料を調べながら「公衆電話ができたのは1900年だった」と知りました。その年がちょうど100周年だったんです。

そのとき、「マーケティングにおいて“時間”は重要な要素になる」ということを強く実感しました。10周年、20周年、そして100周年と節目のタイミングには大きな意味がある。情報を丁寧に調べることが、戦略の起点になるのだと肌で感じた経験でした。

その後、森永製菓を担当することになりましたが当時の森永は台湾以外では海外展開をしておらず、私には仕事がありませんでした。ところがある日、宣伝部の課長から私に声がかかり、「やっと自分の番が来た」と思わず心の中でガッツポーズをしたのを覚えています。

 

どのようなプロジェクトに携わられたのですか?

森永製菓の会長、松崎昭雄さんがとあるラジオを聴いていたことがきっかけで不思議なプロジェクトが始まりました。

ラジオでは、元宇宙飛行士であり、70歳で再び宇宙へ飛び立ったアメリカ上院議員ジョン・グレン氏のエピソードが紹介されていました。その中で、彼がチョコレート好きであることが語られたのです。それを聞いた松崎会長は、「うちの“カレ・ド・ショコラ カカオ70”を、ぜひジョン・グレンさんに食べてもらいたい! 君らは電通なんだから、それくらいできるだろう」と言いました。

私は「わざわざ電通を通さなくても、直接送れば良いのでは」と提案しましたが、会長は「うちは小さな会社だから、突然送りつけたら警戒されて捨てられるかもしれない。だから電通の名義でお願いしたい」と譲りませんでした。

そこで私はまずインターネットで調べ、ジョン・グレン氏がオハイオ州選出の上院議員であることを突き止めました。さらに調べると、偶然にもオハイオ州の日本事務所が永田町にあることがわかったのです。

すぐに事務所へ電話をかけて事情を説明しましたが、あまりにも特殊な依頼のため、最初はなかなか信じてもらえませんでした。しかし担当者の方が非常に親切で、「よかったら事務所に来て、直接説明してくれ」と言ってくださり、面談の機会を得ることができました。

当日、経緯を丁寧に説明し、実際に「カレ・ド・ショコラ カカオ70」を試食していただいたところ、担当者の方にも気に入っていただけました。その結果、事務所名義でジョン・グレン氏宛に松崎会長直筆のクリスマスカードとメッセージを添え、チョコレートを送ることができたのです。

この取り組みは大規模なキャンペーンではありませんでしたが、ひとつのチョコレートがきっかけで国境を越えた心温まるコミュニケーションが生まれた、非常に印象的なエピソードとなりました。

 

送った後、なにか先方からアクションはありましたか?

チョコレートを送ったあと、私は「これでこの仕事は終わったな」とすっかり安心していました。ところがしばらくして再び呼び出され、「おい王さん、ジョン・グレンさんはチョコレートを食べたのか?」と会長から聞かれたのです。そこまで確認していなかったため、慌てて事務所に伺って事情を話しました。すると担当者の方が、「ああ、確認したよ。食べたってさ。美味しかったらしいよ」と教えてくれました。そのまま報告すると、会長は「よし、よかった!」と満足そうな表情を浮かべ、これで本当に終わったと思っていました。

しかし、約2か月後、また呼び出しを受けます。会長は目を輝かせながら「ジョン・グレンさんが日本に来るらしいぞ。アメリカ大使館でパーティーがある。新聞にも載っている。俺はそのパーティーに出たい!」とおっしゃいました。

ただし、そのパーティーは完全招待制で、参加にはチケットが必要です。会長からは「電通の力でチケットを2枚取ってこい」と無茶ぶりをされ、さすがに困りました。大使館にコネもなく、どう考えても難しい依頼です。それでもダメ元で、再び事務所にお願いに行きました。

すると担当者の方が、「うちにも1枚しかないけど、うちは行っても行かなくてもいいから、この1枚をあなたにあげますよ」と言って、貴重なチケットを譲ってくださったのです。本当は会長は奥様と2人で参加したかったようですが、チケットは1枚だけ。結局、会長お一人で出席されることになりました。

そして翌日、私は再び呼び出されることになります──。

 

とてもドキドキするタイミングでの呼び出しですね。当時の内容をお聞かせいただけますか?

「何もトラブルが起きていなければいいけどな……」と内心ヒヤヒヤしながら会長のもとへ向かいました。すると、そんな心配をよそに、会長は満面の笑みで「いや〜昨日は楽しかったよ!」と上機嫌に話し始めました。

「誰も知り合いがいなくて、最初は少し困ったんだよ。でもジョン・グレンさんがいたから、思い切って本人のところに行って名刺を渡したんだ。自己紹介しながら、『このチョコレート “カレ・ド・ショコラ カカオ70” を送ったのは私なんですよ』って伝えたら、大きな声で『Come on! Come on!』と反応して、周りの人を呼び寄せてくれたんだよ」

その場には宇宙飛行士仲間や関係者が多く集まっており、あっという間に会長の周りには人だかりができたそうです。ジョン・グレン氏はとてもユーモアのある方で、「俺が太ったのはこの男のせいだ! こんなに美味しいチョコレートをたくさん送ってくるから、毎日食べちゃって、もう宇宙に戻れないよ!」と冗談を飛ばしたといいます。その言葉に周囲の人々も大笑い。「そんなに美味しいなら私たちにもくださいよ!」と会話が弾み、会場全体が和やかな空気に包まれたそうです。

会長はこのやり取りをとても喜び、後日、ジョン・グレン氏との2ショット写真を社内報にも掲載しました。

この一件は、ラジオ出稿でもテレビCMでもなく、一つのチョコレートから始まった出来事でした。しかし、私はこの経験を通じて、電通は“人と人をつなぐ力”を持つ会社なのだということを強く感じました。単にメディアに広告を出すだけではなく、ちょっとしたきっかけや行動から人と人を結び、新しい価値やビジネスを創出させる。まさにこのプロジェクトは、その象徴のような出来事でした。 無茶な要望にも諦めず、どうにか道を探す姿勢を身につけることができたこの経験は、今でも私の仕事の原点の一つになっています。

 

いつ頃経営者になりたいと考えたのでしょうか?

経営者になろうと考え始めたのは、2006年のことです。1月に3番目の子どもが生まれたことが、大きな転機となりました。

当時、電通の給料は決して悪くありませんでした。むしろ安定した、恵まれた待遇だったと思います。しかし、子どもが3人になったことで将来の生活設計を現実的に考えるようになり、「この収入のまま一生を終えるのは厳しいのではないか」と思うようになったのです。

もちろん、会社には尊敬する先輩方も多く、将来のキャリアのモデルケースもある程度見えていました。だからこそ逆に、「ここにいれば安定はあるが、見えている未来以上のものは掴めない」という感覚が強まっていったのだと思います。

そして2006年10月、私は電通を退職し、中国・上海でメディアコンサルティング会社を立ち上げました。安定した大企業を辞めるというのは、正直とても大きな決断でしたが、あのとき勇気を出して一歩踏み出したことが、今の自分の基盤になっていると強く感じています。

起業後は、小学館、リクルート、上海電通、東京電通、北京電通、アドコムといった企業をクライアントに、幅広い案件に携わりました。小学館の現地法人では経営に深く関わり、他の企業では難題解決を主軸に全力で取り組みました。

2014年1月1日には電通メディアチャイナのCEOとして北京に赴任。キャノン、トヨタ、インフィニティ、ホンダ、日産、資生堂などのメディア業務を担当し、アリババのスポーツマーケティングやコンテンツ関連業務にも携わりました。

その後、2017年11月13日にはアリババスポーツに副総裁・CMOとして入社。グループ全体のスポンサー業務を含め、スポーツマーケティング全般を統括しました。

しかし、2019年4月1日、ジャック・マー氏の退任に伴い、スポーツマーケティングの方針が大きく転換。私は再びメディアコンサルティング事業をスタートし、現在に至っています。

 

株式会社丹渓を起業したときの経緯を教えてください

元々は2018年12月中頃に杭州で国際水泳連盟とFINA GALAというイベントを行う時、丹渓酒というスポンサーと出会ったことがきっかけです。そして2020年以降この企業のマーケティング業務に携わっており、2024年に日本法人を設立しました。

日本マーケットに着眼した背景には、中国と日本における紹興酒の“位置づけ”の違いがあります。

中国には数えきれないほど多くの紹興酒の銘柄がありますが、実際の飲酒シーンでは、紹興酒よりも白酒が圧倒的に多く飲まれています。宴席などでも主流は白酒であり、紹興酒が選ばれる機会はそれほど多くありません。

一方で、日本では中華料理を食べるときに紹興酒が自然と選択肢に入る文化が根づいています。もちろん中華料理店の数は中国に比べればずっと少ないですが、「食事の際に紹興酒を楽しむ」という機会は、むしろ中国よりも多いというのが実情です。

この点については、丹渓の他の役員たちとも何度も議論を重ねました。
中国では今後もしばらく白酒の強い時代が続くだろうし、紹興酒が再び脚光を浴びる時期がいつ来るかは読めない。一方、日本ではすでに紹興酒というカテゴリー自体が広く知られており、1種類、2種類ブランドが増えたとしても消費者にとって“未知のお酒”ではありません。

「新しい文化をつくる」のではなく、「すでにあるマーケットに新しい選択肢を加える」ことができるという意味で、日本市場の方が可能性があると判断しました。

紹興酒の持つ本来の味と魅力を、日本の食文化の中でさらに広げていくことが、私たちの挑戦です。


経営者として仕事をするなかで、どのような苦労がありましたか?

経営を始めてから特に苦労したと感じるのは 「壁にぶつかること」と 「人事の難しさ」です。

まず、壁にぶつかることのエピソードですが、私は当初、丹渓の販売先として“中華レストラン”を考えていました。日本には有名な高級中華が多数あるので、私は日本の皆さんがイメージされるように「中華料理といえば紹興酒」と捉え、「味を気に入ってもらえれば自然に取引につながるだろう」と思い込んでいました。

実際にある中華料理店の社長と話をしたときも非常に好意的で、食事のあと自分のバーに招待してくれたりとフレンドリーな雰囲気でした。ところが実際に話を進めようとすると、大きな壁にぶつかりました。

多くの中華料理店は、自分たちで紹興酒を仕入れるだけでなく、自社ブランドで酒を造っているケースもあります。つまり、彼らにとってはすでに「お店の紹興酒」が存在していて、新しい商品をわざわざ入れる必要がないのです。

それに、紹興酒は日本酒やワインのように飲む量を増やすことができるものではありません。1人が1本飲めばそれで十分。新しい銘柄を置いても、今ある商品の販売量が増えるわけではないのです。さらに、コスト面でも自社で仕入れた方が有利です。

私はこのことを知らずに200軒ほどの高級中華レストランをターゲットにリストアップし、「まずはここから攻めよう」と思っていたため、話を進める中で「そもそも方向が違うのでは?」と気づかされました。

 

では、どのように方針転換されたのですか?

多くの日本人にとって、紹興酒といえば「中華料理と一緒に楽しむお酒」というイメージが強いと思います。実際、私自身も長い間そう感じていました。しかし、丹渓と出会い、実際にさまざまなシーンで飲んでみる中で、その固定観念が大きく変わりました。

ある時、香港で20年修行したシェフのお店に、お酒を2本だけ持ち込み「よかったら一緒に飲んでみませんか」とお願いしたんです。シェフとスタッフの皆さんがワイングラスで冷やした丹渓を口にした瞬間、「これはおいしい」「今までの紹興酒と全然違う」と驚かれ、その場でテストケースとして6本の注文をいただきました。

この体験で、自分たちが「紹興酒=中華料理」という思い込みに縛られていたことに気づきました。実際にそのお店は日本酒に強いこだわりを持つ和食店で、ホームページにも「日本酒専門店」と明記されているようなところです。そんなお店のシェフが丹渓を高く評価してくれたことは、私たちにとって大きな励みになりました。

考えてみれば、日本でもかつては「和食にワインは合わない」と言われていた時代がありましたが、今では多くの和食店で自然とワインが提供されています。中国でも、かつては白酒や紹興酒が主流でしたが、今では多くの人がワインを楽しんでいます。

つまり、飲食の組み合わせや習慣は時代とともに変わっていくものなのです。丹渓は中華料理だけでなく、和食との相性も非常に良いお酒です。日本酒と同じように香りや温度、グラスによって表情が変わるため、料理に合わせて楽しむ幅も広がります。

私はこの壁にぶつかったことで、「中華」にこだわるのではなく、和食など他のジャンルにも広く展開するチャンスがあると気づくことができました。そして、これが大きなヒントとなり、視野を広げた戦略に転換するきっかけになりました。
苦労はしましたが、頭を抱えるだけで終わるのではなく、「気づきを得られてよかった」と今では思っています。

 

人事ではどのような苦労がありましたか?

電通をはじめ、これまで仕事で関わってきた会社は大企業ばかりなので人事の仕組みも整っていました。たとえば部下がどうしてもパフォーマンスを出せない場合、3回ほど面談をして改善が見られなければ人事に話を通し、配置転換や交代といった対応が可能でした。

しかし、今のように自分の会社を経営していると、そう簡単にはいきません。
たとえば「ネット銀行の口座を開設しよう」という、比較的シンプルな業務ひとつをとっても、スムーズには進まないことがあります。私は効率を考えて、ネット銀行の中でも使い勝手のいい銀行で開設しようと提案しました。わざわざ支店に行かなくてもオンラインで手続きが完結しますし、事務負担も減らせるはずだと考えたからです。

ところが、実際にはなかなか進まず、「なぜこんなに遅いんだろう」と疑問に思うこともありました。しかし、よくよく観察すると、単純にスピード感の問題ではなく、見えない抵抗感のようなものがあることに気づきました。

たとえば、もしネット銀行で全ての処理が完結するようになれば、財務の作業は週2時間程度で終わるかもしれません。
そうなると「この業務がなくなったら、自分の仕事がなくなるのでは」とスタッフが感じても不思議ではありません。そうした気持ちは言葉に出ないため、余計に対応が進まなくなることもあるのだと思います。

以前の私は目標達成を第一に考え、「最も効率のよいやり方で進めたい」という発想で動いていました。でも、今は “相手の立場に立って考える” ことの重要性を強く感じています。

小さな会社では、人を簡単に入れ替えることもできません。だからこそ、一人ひとりの心理や事情も踏まえながら進めていく必要があります。これは経営者としての新しい学びであり、同時にストレスでもありますが、今後に活きる大切な経験だと思いました。

 

経営をするうえで、どのようなことを心がけていらっしゃいますか?

経営をするうえで私が特に心がけているのは 「チャンスを見極めて掴むこと」、そして 「人の意見をきちんと聞くこと」です。

「チャンスを見極めて掴むこと」については、大学時代の恩師から教えていただきました。

「法律家や財務畑の人間は、たとえ7割チャンスがあっても、残り3割のリスクを見て“やめておこう”と考える。でもビジネスの世界では逆なんだ。たとえ3割しかチャンスがなくても、『3割もあるなら挑戦しよう』と踏み出す人が成功する」

今でもこの言葉がずっと自分の判断軸の中にあります。

もちろん、すべての人がこの考え方に賛同するわけではありません。リスクを重く見る人もたくさんいますし、7割チャンスがあっても「3割リスクがあるならやめよう」という判断もあるでしょう。それでも私は、3割のチャンスがあるならまずチャレンジしてきました。

しかし、この姿勢には“思い込み”がつきまとうこともあります。
自分では「これはいける」と思っていても、相手から見ればリスクの方が大きく映ることもある。だからこそ、自分の考えを押し通すだけでなく、相手の立場や意見を丁寧に聞くことが大事だと強く感じています。

短期的な成果に飛びつくのではなく、冷静に判断するための我慢ができない経営は危ういのです。

 

「人の意見をきちんと聞くこと」については、どなたからの助言があったのでしょうか?

はい。独立を決めた際、当時の上司から「会社にいる限り、上司や株主、仲間がいて、必ず誰かが“そのやり方はまずい”と注意してくれる。だけど小さな会社の社長になると、その“上”がいない。だから一番危ないのは、自分勝手になることなんだ」と言われました。この言葉は今でも忘れません。

小さい会社では、トップが全てを決めようと思えばその通りにできてしまいます。でも、それが一番怖いことです。だからこそ、今でも悩んだときや少し突っ走りすぎたと感じたときは、この言葉を思い出し、「人の意見を聞く」ことを意識するようにしています。

経営者という立場は自由度が高い分、自分自身を律することが何より大切です。チャンスを見極めて踏み出す勇気と、人の声を聞いて軌道修正する柔軟さ。その両方を持ち続けることが、私が経営をするうえで最も大事にしていることです。


今後の展望について教えてください

当社は丹渓を急いで売ることは考えていません。698年もの歴史をもつお酒だからこそ、時間をかけてゆっくりと広めていくことが大事だと思っています。

昔、ある人が「自分の思想を人の頭に入れて、相手の財布からお金を引き出すのがビジネスだ」と言っていました。

確かに、そういうやり方もあるのかもしれません。でも、私はそれはちょっと違うなと感じています。
おいしい飲み物や食べ物を相手の口に届けることで、お互いが幸せになる。そのほうが、よほど健全で温かいつながりが生まれるのではないでしょうか。

 

ビジネスにおいても、文化交流においても、食事やお酒を共にすることで心の距離が縮まり、話が前に進む場面を何度も見てきました。

例えば、私が仕事で携わっていた当時の小学館の副社長は、部下の出張報告を聞くとき、まず「相手と食事したの?」と尋ねていました。これは、食事を共にできなかったら深い話なんてできるはずがない、そして昼食よりも夕食を共にできたほうが、関係が進展している証拠でもあるという考えがあってのことです。

 

お酒を飲み、食事を共にしながら築く関係の力はどんなビジネスにも共通すると思っています。

そして、「お酒を通じて人と人をつなぎ、文化を広げていく」という考えを大切に、一人ひとりに丁寧に味わってもらい、少しずつファンを増やしていきたいです。


他の経営者におすすめの本のご紹介をお願いいたします

19世紀フランスの政治思想家 アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィルが書いた『アメリカのデモクラシー』がおすすめです。

読みにくい本ですし、経営ともあまり関係ないですが、作者の洞察力、物ことの本質を見抜く力に感心しました。この見抜く力は経営者にとっては非常に大事だと思います。

ぜひご一読ください。

『アメリカのデモクラシー』 アレクシ-・シャルル・アンリ・モリス・クレレル・トクヴィル (著), 松本礼二 (著)

https://www.amazon.co.jp/dp/4003400925

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『社長の履歴書』編集部
『社長の履歴書』編集部
企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。

企業出版のノウハウを活かした記事制作を行うことで、社長のブランディング、企業の信頼度向上に貢献してまいります。