今回はデジタル・インフォメーション・テクノロジー株式会社代表、市川 聡氏にお話を伺ってきました。
「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。
ぜひご覧ください!
| 会社名称 | デジタル・インフォメーション・テクノロジー株式会社 |
| 代表者 | 市川 聡 |
| 設立 | 2002年 |
| 主な事業 | 業務系システム開発、組込系システムの開発及び検証、システム運用サービス、自社開発ソフトウェア販売及びシステム販売事業 |
| 社員数 | 1,642名(連結)(2025年6月末現在) |
| 会社所在地 | 東京都中央区八丁堀4-5-4 FORECAST桜橋5F |
| 会社HP | http://www.ditgroup.jp/ |
事業紹介をお願いします
デジタル・インフォメーション・テクノロジー株式会社(以下、DIT)は、ソフトウェア開発を中心とした事業を展開しています。大きく3つの事業領域を柱としており、それぞれが相互に連携しながらお客様のビジネス課題を解決しています。
第一に、「ビジネスソリューション事業」では、企業向けの業務システム開発から運用サポートまでを一貫して提供しています。業務プロセスの最適化を支援し、企業活動の基盤となるシステムを高い品質で構築しています。
第二に、「エンベデッドソリューション事業」では、メーカーが世に送り出す製品に組み込まれるソフトウェアの開発および検証を行っています。例えば、車載機器やスマート家電など、インターネットに接続される製品の内部で動作するソフトウェアの開発や、安全に稼働するかどうかの検証を担っています。
そして第三に、「プロダクトソリューション事業」として、自社開発製品の研究開発・販売も積極的に展開しています。特に「セキュリティ」および「業務効率化」の領域において独自性の高い製品を開発しています。
貴社商品の魅力を教えてください
2025年9月に開発を発表した、組み込み機器向けセキュリティソリューション『RezOT(レジオット)』は多くの注目を集めています。
『RezOT』は、ネットワークに接続されたIoT機器が外部からのサイバー攻撃を受けた際、その動作の異常を瞬時に検知し復旧まで行える仕組みを備えており、特に車載機器、スマート家電など、インターネットとつながる製品における安全性確保に寄与しています。『RezOT』はメーカーの商品に組み込んでいただくためのソリューションであり、今後も国内外での法規制強化に合わせて需要が高まると見込んでいます。
そして何よりも当社のセキュリティ製品の最大の特徴は、“防御”ではなく“正常状態の保持”に重きを置いた設計思想にあります。
セキュリティ対策の世界では、どれほど堅牢な防御を施しても、攻撃者は常に新たな手法で突破を試みてきます。そのため、従来型の防御一辺倒のアプローチでは、未知の攻撃や突破に対して限界があるのです。
そこで当社は、「防ぐ」のではなく、「変化を検知し、即座に元の正しい状態に戻す」という逆転の発想のもと製品を開発してきました。
たとえば、 Webサイト・システム向け改ざん検知・復旧ソリューション『WebARGUS(ウェブアルゴス)』では、外部からの不正アクセスが発生した際、その“変化”を瞬時に捉え、0.1秒未満で改ざん前の正常な状態に自動復旧させる仕組みを搭載しています。
これにより、
- いかなる攻撃手法にも対応可能(検知方法は攻撃手段に依存しない)
- 実害をゼロに抑える(復旧が即時に行われるため)
といった高いセキュリティパフォーマンスを実現しています。
攻撃を“防御する”だけでなく、“なかったことにする”というアプローチは、IoT機器からWebシステムまで、幅広い領域で今後ますます需要が高まると考えています。
当社の製品の詳細は下記サイトをご参照ください。
コーポレートサイト:https://www.ditgroup.jp/
WebARGUS :https://security.ditgroup.jp/products/webargus
ここからは市川社長のことをお聞かせください。どんな学生でしたか?
正直なところ、学生時代は目標や目的意識を明確に持たず、「なんとかなるだろう」と楽観的に過ごしていました。親の支えも当たり前だと考え、深く向き合わず過ごしていた自分に対して、父(DIT創業者)が強い危機感を抱いたようです。
そして転機となったのが、高校進学時に父から言い渡された「寮生活のある学校に行け」という言葉でした。私は北海道・函館にある男子校に進学し、3年間の寮生活を経験しました。
その寮は、1年生は2段ベッドが100台並ぶ大部屋で生徒が共同生活をする極めてストイックな環境でした。プライベートはほとんどなく、些細な言動がすぐ周囲に影響します。
この環境下で強く学んだのは、「してもらうことが当たり前ではない」という感覚と、わがままや甘えは通用せず、相手を思いやる配慮が必要であるということです。寮生活は厳しいものでしたが、社会に出る前に「自分を見つめ直し、磨き直す」貴重な機会となりました。この経験は、現在の経営にも深くつながっていると実感しています。
同級生の方とはどのような交流をされていましたか?
寮生活では、2年生から4人一部屋のグループで生活する仕組みになっていました。部屋ごとに目的意識はさまざまで、難関大学への進学を目指し勉強に打ち込むグループもあれば、私たちのように「とにかく毎日を楽しく過ごそう」というタイプのグループもありました。
私の部屋の4人は、いわば“落ちこぼれ組”。消灯時間が過ぎても懐中電灯の光を頼りにゲームをしたり、大人の目をかいくぐりながら自由を謳歌したりと、青春を満喫するために試行錯誤していました。「悪さの共有」と言うと語弊がありますが、その頃に一緒に過ごした時間や同じ秘密を共有した経験は、今でも特別な絆として残っています。
決して模範的とはいえない学生生活でしたが、無邪気で全力だったあの頃の仲間とは、今も心のどこかでつながっていると感じています。
鍼灸師を志したきっかけを教えてください
鍼灸師を目指すことになった原点には、父の存在が大きく関わっています。父は家でも非常に厳格で、私にとって絶対に逆らえない存在だったこともあり、父が敷いたレールに乗るのではなく、“自分の力で生きられる手に職をつけたい”と思うようになりました。
当初は医師を目指していましたが、試験にどうしても通ることができず悩んでいたところ、同級生からのアドバイスで「西洋医学がダメなら、東洋医学がある」との一言に背中を押され、鍼灸の道に進むことに決めました。
鍼灸師として、どのようなキャリアプランを描いていましたか?
鍼灸師として働き始めた当初は、「いずれは独立し、自分の院を持つ」というビジョンを描いていました。時代劇や歴史小説にも影響され、「表の顔は鍼灸師、腕一本で人を癒し、必要とされる人になる」というようなプロフェッショナルな生き方に憧れがあったからです。
たとえば、患者さんから「この先生に任せておけば大丈夫」と信頼される存在になりたいという思いが強くありました。技術を磨き、自分の腕で食べていける“手に職”があることに魅力を感じていたのだと思います。
将来的には、治療院を構え、地域の方々の健康を支える──そんな自立したキャリアを思い描いていました。
鍼灸師としての経験が、現在の経営に活きていると感じることはありますか?
鍼灸師として働いていた頃、雇われ院長として患者さんの施術を担当していましたが、経営はオーナーである院長が担っており、常に収益意識を求められる環境でした。「稼げなければ、自分の給料すら生み出せない」という生々しい現実に直面し、収益を生み出すことのシビアさを身をもって体験しました。この経験は、現在の経営における「売上」「原価」「人件費」といった感覚に直結していると感じています。
もうひとつ印象的だったのは、研修期間を経て雇われ院長として独り立ちした直後、前任者の半分以下に患者数が減ってしまったことでした。技術には自信があったものの、ある患者さんに「あなたに治療してもらっても良くならない」と言われた瞬間、自分が結果に向き合っていなかったことに気づかされたのです。
それ以降、効果が出るまできちんとコミュニケーションをとり、満足度を確認しながら施術を重ねる姿勢に大きく考え方を変えました。
たとえば
- 初回施術後に「痛みを10段階で評価すると、今はどれくらいですか?」と聞く
- 改善が乏しければ、次回は別のアプローチに変える
- どの施術がどれほど効果につながったか、都度確認しながら進める
そうすることで、3回のアプローチ(40分×3回)後には「半分以下になりました」「痛みがかなり楽になりました」といった声が戻ってきました。
この経験から学んだのは、
- 顧客(患者)の声に耳を傾けることの重要性
- 成功体験も失敗も含め、実践を通じて成長する姿勢が大切
ということです。
これはまさに現在取り組むIT事業にも通じます。座学や理論だけではなく、現場・お客様との対話が最大の学びになるという姿勢は、経営者として今も心に留めている最も大きな教訓の一つです。
DITに入社された経緯について教えてください。
鍼灸師として大阪の治療院で働いていた頃、年に一度だけ年末年始のタイミングで実家に帰省していました。その際に、父から「最近どうだ?」と声をかけられたのがきっかけです。
ちょうど鍼灸師として3年目を迎えた頃で、私は「どんな患者さんでも60点の治療はできるようになった。しかし、患者さんから求められている80点、90点、100点の治療を安定して提供できているとは言いがたい」と悩んでいました。その思いを父に話したところ、父はひと言、「お前がその長いトンネルから抜け出す方法がある」と言い、目の前に“新しい可能性”を示してくれました。
父の提案はこうでした。
「もっと多くの人に鍼を打て。うちには心も体も疲れている社員が400人いる。彼らを全部お前が治療すれば、技術は確実に磨かれるし、社員の幸福度も上がる。お前にとっても、会社にとっても良い話だ。」
この言葉に強く心を動かされ、私は「手に職を活かせる道」として当時はまだ従業員400名ほどのDITに、鍼灸治療を提供するために入社しました。
いわば、“治療の腕を磨く修行”として始まったDITでのキャリアでしたが、このことが後に経営やITの領域に飛び込むきっかけにもなりました。
お父様から「会社を継いでほしい」と言われていたのでしょうか?
いいえ、少なくとも私自身には「経営者になってほしい」と強く言われた記憶はありません。父としても、私に経営者の特性や資質があると確信していたわけではなかったでしょうし、「絶対に継がせたい」という気持ちがあったとも思えません。
むしろ、会社を大きくしていくために、あらゆる可能性の中から“戦力になりそうな人材”を模索していた中で、「子どもや親族なら、自分の思いが伝わりやすいかもしれない」という程度の意識だったのではないかと感じています。血縁者であれば距離を縮めやすい、という期待はゼロではなかったかもしれません。
ただ、当時の私に向けられていたのは、「経営を継げ」というよりはむしろ「鍼灸師として成功できるように手助けをしたい」という気持ちだったと思います。それが結果的に、会社の社員の幸福度向上にもつながる、という構図が成立していたことが大きかったのでしょう。
つまり、「鍼灸師としてのキャリア支援」と「会社の福利厚生向上」がリンクした結果に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった、と今では感じています。
お父様への印象は、社会人になってどのように変わりましたか?
学生時代、父は“とにかく怖い存在”でした。絶対に逆らえず、家のなかでは常にピリついた空気をまとっていた印象があります。そして入社後すぐ、会社でも同じように激しく怒声を響かせる父に接し、「職場でもこんな感じなんだ」と驚いたのを覚えています。
ただ、入社後に社員の方々と接するうちに、それが単なる感情的な怒りではなく、「会社をより良くするため」「期待する社員を成長させるため」の叱責だったことがわかりました。
たとえば、厳しく叱った後には、その社員と遅くまで食事を共にし、フォローを欠かさない。常に「お前に期待しているからだ」という言葉を添える。この姿勢を目の当たりにし、「これがリーダーとしての本気なんだ」と感じるようになりました。
父は、会社を大きくするためには「与えられたことをただこなすのではダメ。みんなが少し苦労してでも乗り越えた先にしか、成長はない」と、常に高い理想を掲げていました。だからこそ、そのハードルに歯を食いしばってついてくる幹部社員たちがいたのだと思います。
その姿を見ていた私は、いつしか「ただ怖い人」だと思っていた父を、「心から尊敬すべきリーダー」として見るようになりました。厳しさの裏にある深い愛情と責任感を知ったこと、それこそが最も大きな印象の変化でした。
DIT入社後、鍼灸師から経営の仕事に携わるようになった経緯を教えてください
入社当初、神奈川県の金沢文庫にあった自社ビルに治療室として使えるスペースとベッドを1台用意してもらいました。
400名の社員を相手に「腕を磨くチャンスだ」と意気込んでいましたが、実際にはほとんど誰も来ません。よくよく調べると、金沢文庫の拠点に常駐している社員はわずか5名。そのうち、男性社員2名には「鍼はちょっと苦手」と断られ、女性社員3名には「知らない人に体を見せるのはちょっと…」と敬遠されてしまい、結局、鍼を打てたのはゼロ人。これが約1ヶ月半続きました。
そんなある日、父から食事に誘われ、「誰ひとり治療に来てくれない」と打ち明けたところ、「場所が悪かったな」と苦笑されつつも、続けてこんな提案がありました。
「そのままじゃ時間の無駄だろう。ちょうど今、複数のグループ会社を束ねるホールディングス体制に移行し始めている。だが、俺の意を汲んでフットワークよく動いてくれる人間がいない。お前、カバン持ちをやってみないか?」
その言葉をきっかけに、私は父のカバン持ちとしてさまざまな経営会議やグループ会社の現場に同行するようになりました。叱咤激励の場にも立ち会い、指示内容をメモし、次の会議までにどう改善が進んだかを確認する──そんな地道なサポート業務を通じて、経営の現場と向き合う日々が始まりました。
実際にお父様の仕事ぶりを間近でご覧になって、どのように感じましたか?
私のなかで父への認識が大きく変わりました。
現場に同行してまず驚いたのは、「現実をよく見ているリーダー」だということです。社員一人ひとりの表情や動きまで細かく気にかけており、的確な指示やアドバイスをすぐに出す姿勢は、まさに現場主義そのものでした。
たとえば、元気のない社員がいれば食事に誘って「何かあったか?」と耳を傾ける。直接の上司には言えなかった悩みが打ち明けられれば、すぐに改善策を講じる。そんな「大きな視野」と「細やかな配慮」を兼ね備えた父の姿を、私は何度も目にしてきました。
規模としては400名ほどの会社でしたが、いわゆるピラミッド型の組織ではなく、むしろフラットな“文鎮型”の経営スタイルです。それでも社員がついてきたのは、トップがしっかりと全体に目を配り、行動で示していたからだと感じています。
また、私自身も父のもとで経営を学びながら、総務、経営企画、上場準備、新規事業、エンベデッド事業の責任者など、さまざまな部署を経験させてもらいました。セキュリティ事業は、自ら立ち上げを担った部門でもあります。
つまり、父と共に現場で学び、実務を横断して経験していくなかで、会社全体を多面的に捉える視点を育ててもらったのだと思います。
社長就任の経緯について教えてください
私が社長に就任したのは2018年のことです。それ以前は、創業者である父が長年にわたって経営を担っていました。しかし、その父も70代後半に差し掛かり、「体力にも限りがある」と感じるようになった頃、大きな決断が下されたのです。
おそらく父は、私を含む何人かの中から次期社長候補を考えていたと思います。そのなかで私が選ばれた理由は、経営経験の豊富さというよりも、「父の理念を最も深く理解し、継承できる存在」だったからだと考えています。父と共に多くの場面を経験し、経営の現場も、人への想いも間近で学んだ自負が、私のなかには確かにありました。
ただし、突然のバトンタッチではなく、慎重に準備を重ねたうえでの交代でした。父は「3年間だけ、会長としてお前を支える」と言ってくれて、その言葉通り、2018年の社長就任から3年間は並走しながら私を支えてくれました。
そして2021年、父はその役目を終えるかのようにこの世を去りました。振り返ると、2018年というタイミングには、父自身の体力と精神力、そして会社への責任を考えた、深い判断があったのだと今は感じています。
父が遺した思いを引き継ぎながら、私自身のやり方で会社を前に進めていくその覚悟をもって、経営に臨んでいます。
社長就任時、どのような新しいことを始めようと考えていらっしゃいましたか?
社長に就任した際にまず意識したのは、「変えてはいけないこと」と「変えるべきこと」の見極めでした。
創業者である父が築いてきた経営の基盤は非常に優れたものでした。特に、「社内カンパニー制」と「自社製品・サービスの開発」という二つの軸は、今後も変えてはいけない大切な部分だと判断しています。
たとえば、
- 200名以下の事業単位で経営する社内カンパニー制
→ 組織が大きくなっても風通しを維持し、意思決定をスピーディにする - 他社にはない独自製品・サービスの開発
→ 組織の「強み」として未来の競争力の源泉になる
これらは父から受け継いだ「守るべき価値」として、私の中でも今後も揺るぎない方針です。
一方で、「変えるべき部分」もあると感じました。それは、リーダーシップのあり方です。
父はトップダウン型で強いリーダーシップを発揮し、会社の原動力となっていました。ただ、組織が大きくなるにつれて、そのスタイルだけでは限界が来る場面も増えてきます。そこで私が考えたのは、
- 権限委譲を進め、自律的に責任を持って動ける幹部を育てること
- 「話しやすい社長」であることで、現場から率直な意見を吸い上げること
という、父とは性質の異なるリーダーシップスタイルへの移行でした。
父の背中を見て育ち、経営の原則は引き継ぎながらも、時代や組織のステージに合わせてやり方を変えていく。それこそが、私に課せられた「継承のあり方」だと思っています。
つまり、軸はぶらさず、方法を進化させる、そのバランスを大切にして経営をスタートさせました。
経営者として仕事をする中で、苦労されたことはありますか?
経営者として最初に直面した壁は、リーダーシップのスタイルの違いに対する組織の戸惑いでした。それまでの当社は、創業者である父がトップダウンで細やかに指示を出し、社員はそれに応えることで結果を出すスタイルが根付いていました。
私は社長就任後、「ある程度権限を委譲し、現場に考えて動いてもらうべきだ」と考え、メンバーに主体性を期待したのですが、最初はなかなか受け入れられませんでした。
たとえば、「今まで会長は全部指示してくれたのに、社長は何も言わない。それは考えがないからでは?」という意見が出てしまうほどです。その背景には、「指示を受けて動く」ことが成功体験として深く根付いていた風土がありました。このギャップを埋めるには、「言われたことをやれば良い」から「考えて動く」へのマインド転換が必要で、そこに最も時間を要しました。
また、権限を委ねることの難しさも痛感しました。父がよく言っていた「任せて任せず」という言葉の意味に気づいたのは、ある程度経営を経験してからのことです。
権限委譲をすると、メンバーは自分の判断に自信を持って突き進みます。しかし、トラブルが起きた時に「任せていたから」と放置してしまえば、組織全体としては取り返しのつかない損失になります。つまり、
- 任せつつも、定期的に状況を把握すること
- 必要なタイミングでは的確な指摘や軌道修正を行うこと
この“適度な距離感でのマネジメント”が不可欠だと気づきました。
経営の難しさは、「任せる/介入する」のバランスを柔軟にとりながら、組織全体のベクトルを揃えていく点にある。それを実感したことが、私にとって最も大きな学びであり、苦労でもありました。
「自分で考えて動くのはちょっと…」という社員へ、どのように言葉をかけられたのでしょうか?
当社には創業当時から大切にしてきたDNAがあります。それは、「チャレンジした失敗は責めない」という文化です。これは父の時代から受け継いでおり、私が社長に就任してからも変わっていません。
まず私が伝えてきたのは、「やってみようと思ったことは、失敗しても構わない」ということ。チャレンジした結果うまくいかなかったとしても、責任や地位が失われるわけではない。給与が大幅に下がるようなこともない。だからこそ、遠慮せずにまずは踏み出してみてほしいというのが最初のメッセージでした。
ただ一方で「好き勝手に進めて良い」ということではありません。DITは複数の「社内カンパニー」を持つ組織として動いています。それぞれに幹部がおり、価値観も意見も違うことがある。そのため、独断で進めるのではなく、周りとしっかり調整しながら進行することを求めてきました。
- 挑戦は自由。失敗は不問。ただし、独りよがりはNG
- カンパニー内で合意形成し、ベクトルを揃えて動いてほしい
というスタンスです。
そして、進行中の取り組みについては逐次報告を受け、「その方向性はいいね」とか「ここはもう少し検討しよう」と、社長として最終的な方向づけには関わるようにしていました。
こうしたやりとりを重ねるうちに、「どこまでが自分たちの裁量範囲で、どこからが社長判断に委ねるべきか」という線引きが徐々に見えてきたように思います。理解し合うまでには丸3年ほどかかりましたが、今では各カンパニーが主体性を持ちつつも、一枚岩で前に進める体制が整ってきたと感じています。
「任せて任せず」を実現するために、どんな工夫をされたのでしょうか?
「任せて任せず」というのは言葉にすると簡単ですが、実際に組織の中で運用しようとすると、まず上下の信頼関係が必要不可欠です。そのために私が意識したのは、“指示”をしないで“気づき”を促すことでした。
たとえば、あるプロジェクトが行き詰まった際、私は「こうしなさい」と結論を押しつけるのではなく、社内の2層、3層目のメンバーから拾った声をもとに、幹部にこう伝えます。
「今この層からこういう意見が出ているようなんだけど、そこはもう少し掘ってみたらどう?」
これにより、「社長に言われたから」ではなく、「現場の声を聞いて自分で判断した」というプロセスが生まれます。すると実行の主体は幹部自身になり、結果が出た際には「自分たちで出した成果」になる。この成功体験の積み重ねが信頼につながり、組織としての自走力も高まっていきました。
また、私自身も情報を可能な限り多方面から収集しています。幹部からの報告だけでなく、さらにその下の層、現場目線の声も拾う。そのうえで、「方向性の確認」や「軌道修正の示唆」を行いながら、最終判断には寄り添います。
つまり、
- 結論は与えず、気づきを与える
- 実行は任せ、結果を評価するのはチームと現場
- そのプロセスをサポートする役割に徹する
このバランスが、共創の文化を育み、みんなが率直に意見を伝え合える関係性の土台を作っていったのだと感じています。
社長としてお仕事をされるうえでのやりがいは、どんなところにありますか?
私にとって一番のやりがいは、社員からの「声」が、会社を動かす原動力になっている瞬間に立ち会えることです。
当社には幅広い年代・役職の社員がいます。それぞれの立場で、現場の問題意識や「もっとこうしたい」という改善提案を真剣に話してくれます。もちろん、そのすべてにすぐ応えられるわけではありませんが、10の意見のうち、2つや3つでも対応し改善に繋げると、「この会社は声を聞いてくれる」「行動に移してくれる」と感じてもらえます。
そうすると、次はもっと意見を寄せてくれるようになるので、社員からの熱量が次の改善を呼び込み、やがて会社全体の成果に繋がっていきます。この“良い循環”が回り始める瞬間が、私にとっては本当に嬉しく、社長としての存在意義を感じる瞬間でもあります。
「伝えてよかった」「変わって嬉しい」「もっと良くしたい」
そう思ってくれる社員が増えること。それが私にとって最も大きなやりがいです。
DITの今後の展望について教えてください
IT業界は変化が激しい世界です。現在の社員規模や売上、良好な顧客層は、これまでの実績が積み上げてきた成果に過ぎません。未来に向けて最も大切なのは、変化に乗り遅れず、顧客が求める価値を提供し続けることです。
たとえば近年、生成AIなど新しいテクノロジーが急速に進化しています。このような技術を積極的に活用しながら、顧客が実現したいことをスピーディに、そして確実に形にしていく対応力が問われています。ここにこそ、DITが価値を発揮すべき領域があると考えています。
もう一つ大きな柱となるのが、自社開発製品の継続的な創出です。「WebARGUS」や「RezOT」に代表されるように、DITは独自の技術をもとにした製品を生み出してきました。これからも自社の経験と知見を活かし、「DITにしか作れないプロダクト」で社会の課題を解決していきたいと考えています。
さらに、地方拠点の拡充と人材戦略にも力を入れています。
現在、グループ全体で約1,600名の規模がありますが、首都圏だけでは少子高齢化に伴う採用課題も出てきています。そこで、愛媛県松山や北海道函館など地方拠点を設け、地域に根ざしたDX支援や開発体制を整えています。ICTを活用し、「地元で働きたい方が活躍できる場所」もつくることで、DITの存在価値を広げていきたいと思っています。
そこで当社では、人材に求める姿として「3A」を掲げています。
Autonomous(オートノマス):自分の意志・判断で自律的、主体的に行動することができる人財
Agility(アジリティ):状況変化に対応して、柔軟な発想で機敏に対処することができる人財
Aggressive(アグレッシブ):困難な状況でも積極果敢に挑戦、行動することができる人財
この3Aを備えた人財になりたいと志す方であれば、当社は本当にチャレンジしがいのある場だと思いますので、ご興味のある方はぜひご連絡をいただけると嬉しいです。
採用情報はこちら→https://www.ditgroup.jp/recruit
今後も「DITに頼んでおけば大丈夫」だと信頼される存在であり続けるために、変化対応、自社製品開発、地方展開の3つを軸にさらなる成長を目指していきます。
経営者の方におすすめしたい書籍はありますか?
多くの経営者の方々は、ビジネス書や哲学書をよく読まれていると思いますが、私は時代小説から学ぶことが多いタイプです。その中でも特におすすめなのが、池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』です。
江戸時代に実在した火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(通称“鬼平”)を主人公とした物語で、彼が配下の与力や同心たち、さらには元盗賊の者たちをも巻き込みながら、悪を取り締まっていく姿が描かれています。
作中で印象的なのは、「立場や役職で人を動かすのではなく、信念や情に訴えて仲間を率いる」というリーダー像です。「罪を許す代わりに、もっと悪い者を捕まえる手助けをして欲しい」といった柔軟な交渉や、仲間の背景や心情に寄り添いながら組織をまとめていく様子には、現代の組織運営にも通じるヒントがあります。
つまり、
- “人は役職ではなく、人に心を寄せられて動く”
- “人情や配慮が、組織力の源泉になる”
といったことを、物語を楽しみながら学ばせてくれる。そんなところが『鬼平犯科帳』の魅力だと思っています。
経営という立場にあると、どうしても理論や数字に偏りがちですが、時に「人間くさく、情と心意気で動かすリーダーシップ」を思い出させてくれる良書として、ぜひ手に取ってみていただきたい一冊です。
| 『鬼平犯科帳』 池波 正太郎 (著) |
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企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。
企業出版のノウハウを活かした記事制作を行うことで、社長のブランディング、企業の信頼度向上に貢献してまいります。
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