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ビット・パーク株式会社代表 野口 修氏

  • 11/25/2025
  • 11/25/2025
  • 仕事
  • 73回

今回はビット・パーク株式会社代表、野口 修氏にお話を伺ってきました。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

 

会社名称 ビット・パーク株式会社
代表者 野口 修
設立 平成6年3月
主な事業 WEBアプリケーションの企画、設計、開発、運用、保守、およびコンサルティング

広告、販促ツール、マニュアルの企画、制作

ノベルティの企画、設計、製造、販売

デザイン・クリエイティブ業務

「おくりん坊」システムによるデータ転送サービスの運営

データセンター向け用品の企画、設計、販売

社員数 30名(取材時)
会社所在地 東京都目黒区緑が丘2-5-10 ローゼンボルグ自由が丘2F
会社HP https://www.bitpark.com/

 

事業紹介をお願いします

ビット・パーク株式会社は、クリエイティブ制作、システム開発、ネットワーク運用、プロダクト開発、プランニングの5軸で事業を展開しています。クライアントからのご要望に合わせて、それぞれの事業が連携して取り組むので、商品のプロモーションや動画制作、キャラクターを使ったSPツール、GPS端末を利用したイベント支援など、多岐に渡るサービス提供が可能です。

そして、ただ依頼されたものをカタチにするのではなく、ご要望以上、あるいは想像以上の付加価値ある提案をすること「+Something」をモットーにしています。

 

 

創業から現在まで、どのように事業を展開されてきたのか教えてください

創業当初はクリエイティブ制作を主軸に、紙媒体のデザインや企業パンフレットの企画・制作といった業務を中心としていました。しかし、インターネットの登場とともにビジュアルだけでなく“動く仕組み”の必要性が増したことで、ホームページやWebデザイン等も手掛けるようになりました。そのタイミングから、システムエンジニアやネットワーク技術者を迎え、事業拡大が進みました。

そこから約10年の間で、インターネットを介したサービス/プロダクト開発や、大規模Webシステムの実装、さらにはライブ配信・映像ストリーミングシステムの開発・運用など、より高度かつ複合的な案件にも対応してきました。

現在では、システム開発やネットワークインフラの構築が売上の約半分を占めており、特に公共機関や大手通信会社との案件において実績を持ちます。一方で、Webサイト制作やプロモーション企画・デザインといったクリエイティブ部門も健在で、システムとデザインを一体で提案できる点はビット・パークならではの強みとなっています。

 

事業の特徴はありますか?

ビット・パーク株式会社の事業の大きな特徴は、「受託開発」と「自社プロダクト開発」の両輪で成長していることにあります。

創業当初から、Webサイト制作やECシステム開発など、クライアントのニーズに応じた受託型のクリエイティブ・システム開発を手がけてきました。ビジュアルデザインとシステム開発の両方をワンストップで行える体制は、当社ならではの強みといえます。

しかし、それだけにとどまらず、10年以上前から「自社ブランドのプロダクトを持つ会社へ」という構想のもと、自社プロダクトの立ち上げにも積極的に取り組んできました。

GPSデバイスを活用した見守りサービスや遠隔制御技術を活用した防災サービスなど、受託開発とは異なり、自社プロダクトは販売後にストック型で収益が発生する仕組みを持っています。そのため、市場の変化にも揺らがない“収益の安定基盤”をつくるという意味でも、今後の成長を支える柱として期待しています。

現在は、受託開発事業が安定した売上を生み出し、自社プロダクト事業が継続収益(ストック型ビジネス)を生み出すというバランスを保ちながら、それぞれの特長で補い合う形で成長する事業モデルとなっています。

なお、開発専門でもなければデザイン会社でもないというユニークさから、社員が家で「何をしている会社?」と聞かれて困ることもあるほどですが、その“説明しづらさ”こそが、多彩な領域で価値を生み出せるビット・パークの特徴といえます。

 

最も注力していることを教えてください

現在、最も注力しているのが、GPSデバイスを活用した防災・見守りソリューションの開発・提供です。

同社が扱うGPS端末は、わずか約25グラムという超軽量サイズが特長で従来の“位置情報を知るための機器”という枠を超え、「GPS + 何か(+ Something)」というコンセプトのもと、多彩なユースケースに応用できる仕組みを整えています。

 

主な活用例

・認知症徘徊高齢者見守り https://www.ninchisho-haikai-gps.com/

ケアミックス株式会社様が運営するサービス「認知症徘徊GPSセンター」の認知症の徘徊対策専門の見守りサービスにおいて、GPSの技術提供・運営サポートをしています。生活圏からの出入りを検知しメール通知するなど、いざに備えた対策や認知症の特性にあわせたサービスを展開しています。

 

・人感センサー付き「みまもりここちゃん」 https://co4.bitpark.co.jp/cocochan/

専用端末を自宅の生活導線上に設置するだけで、居住者の生活リズムをモニタリング。一人住まいの高齢者を遠隔でそっと見守ることができます。見守る側も見守られる側にも負担をかけない、かんたん設置の見守りシステムです。

 

 

・短期レンタル「ここココ EventAssist」 https://co4.bitpark.co.jp/event-assist/

サイクリングイベント、山岳イベント、海上スポーツ、お祭りなど、屋外イベントの参加者・スタッフの安全管理や運営サポートにGPSの位置情報が活用されています。最大100台を同時レンタルで、位置情報を一元管理することができます。

 

いずれのサービスも、単機能の“GPSデバイス”としてだけでなく、小型のGPS端末を通信デバイスとしても活用し、現場の課題にあわせて機能をカスタマイズしています。さらに、これらデバイスに温度センサーを搭載すれば、冷凍輸送中の温度異常検知や、工場ラインの動態監視といった業務向けソリューションにも応用可能です。

こうした見守り・防災領域でのソリューション展開により、ビット・パークは社会インフラ的な価値を持つプロダクトの創出を進めるとともに、月額課金型で提供する“ストック型ビジネスモデル”を確立しつつあります。

 

ココBOXについても教えてください

GPSを活用した見守り・防災事業に加え、近年注力しているプロダクトに、防災用キーボックス「ココBOX(リモート開錠箱)」があります。これは、災害時に避難施設の“鍵”で混乱が生じないよう、あらかじめ必要な鍵を専用のボックスに保管しておき、有事の際は遠隔操作で解錠できるシステムです。

導入事例の一つが、新潟県佐渡市です。2024年1月の能登半島地震では、震源から近い同市でも震度5強の揺れが発生し、地盤沈下や交通網の寸断が確認されました。従来は鍵を持つ責任者が現地へ向かわなければ解錠できず、緊急時の対応が遅れる恐れがありましたが、ココBOXがあったことで避難所開設がスムーズに進みました。

「ココBOX」の仕組み

  • 避難所、防災倉庫等の鍵を事前にココBOXに格納
  • 災害発生時、管理者が遠隔で解錠・施錠が可能
  • 複数の防災施設をクラウドで一元管理
  • 全国瞬時警報システム 「 J アラート 」 との連携機能も実装

 

 

当製品は2025年度「ジャパン・レジリエンス・アワード(強靭化大賞)2025・優秀賞」を受賞。「デジタル技術で避難所開設の課題を解決する」という観点から、このプロダクトは防災展示会などでも注目を集めており、自治体・教育機関・公共団体などからの引き合いが増加しています。

今後はさらなる機能拡張や他地域への展開も視野に入れ、「防災DX」として社会インフラの一端を担うプロダクトとして成長させていく方針です。

 

防災関連プロダクトを手がけるようになったきっかけを教えてください

防災関連の製品開発に注力するようになった大きなきっかけは、平成29年に東京都が実施した「東京都先進防災技術実用化補助事業」への採択でした。私たちはそれまで、GPSを活用した高齢者見守りサービスや位置情報システムを展開していましたが、この制度への応募・採択を通じて、「防災の現場で使えるGPSシステム」という方向性が生まれました。

具体的には、災害派遣医療チーム(DMAT)向けに、救助隊員や医療車両の位置情報をリアルタイムで「見える化」する「広域災害救助活動支援システム」を開発しました。

地震や洪水、台風など大規模災害時に、

  • どの隊員がどこで活動しているのか
  • 医薬品を積んだ車両や支援物資が今どこにあるのか
    といった動きを可視化でき、現場での判断スピードや安全性が大幅に向上します。

このプロジェクトの成果や現場での活用状況を通して、私たちは「GPS技術を防災領域で活かすことで、もっと社会に貢献できる可能性がある」と感じました。

日本は災害大国である以上、防災における“デジタルの備え”が今後ますます必要とされるはずである、という強い問題意識が、今の事業につながっています。

「広域災害救助活動支援システム」 https://co4.bitpark.co.jp/koiki-saigai/

 

 

ここからは野口社長のことをお聞かせください。学生時代に打ち込んだことは何ですか?

学生時代に最も打ち込んだのは音楽です。小学校高学年からギターを弾き始め、ビートルズやザ・タイガースなど、グループ・サウンズに深く影響を受けました。当時は毎日のように弾き、仲間とバンドを組んで演奏していました。

実は今でも演奏を続けていて、会社にはドラムやギターが置いてある防音室もあります。

音楽を通じて得られた集中力や創造性、チームでひとつの音を作る経験は、今の仕事やプロダクト開発にもつながっていると感じます。

 

学生時代、音楽以外に興味・関心を持っていたことはありますか?

音楽以外では、電気・通信技術への興味が強くありました。インターネットがまだ普及していなかった時代でしたが、アマチュア無線や特殊無線技士の免許を取得し、無線機器の操作や通信システムの仕組みに触れることに魅力を感じていました。

その延長で「この資格を活かせる仕事がしたい」と考え、学生時代に進路として選んだのが、日本電信電話公社(現NTT)でした。当時の採用説明では、離島間の通信を支えるために無線機を設置する工事などが紹介され、「通信によって誰かをつなぐ」という仕事に強く惹かれたのを覚えています。

ただ、入社後の配属は無線部門ではなく、意図せず「有線伝送」の部署へ。予想外の配属ではありましたが、そこでの10年以上の経験が、現在のビジネス設計やネットワーク構築プロジェクトに活かされていることは間違いありません。

こうした技術への興味と実務経験が、後にビット・パークでの事業展開──通信・GPS・ネットワークを活かしたプロダクトの発想にもつながっていると感じます。

 

ちなみに、有線伝送とはどんなお仕事だったのですか?

私が携わっていた有線伝送とは、現在で言うところの光ファイバーケーブルを用いた通信インフラの構築・運用の仕事です。

まだインターネットが普及していなかった昭和50年代(1975〜85年頃)は、離島などケーブルの敷設が難しいエリアでは、無線を用いた通信インフラが使われていました。電話局の屋上には大型アンテナが設置され、ケーブルの代替として電波を飛ばして通信を確保していたような時代です。

しかしその後、光ファイバーが登場すると状況は一変します。
大容量で高速な通信が可能な「光伝送網」の整備が全国で進み始め、私が配属された有線伝送部門はインフラの要として、一気に重要性を増していきました

  • 電話回線だけでなく、後のインターネット通信の基盤となる光ファイバー網を全国へ展開
  • 通信品質を維持・改善しながら、日本中の情報インフラを支える役割

当時はそこまでの転換点になるとは想像していませんでしたが、振り返ると、有線伝送部門での経験こそが、現代のネットワーク設計や通信システムのベースとなる視点を養ってくれたのだと感じます。

 

入社当時のキャリアビジョンを教えてください

私は1976年にNTTに入社しました。当時はまだパソコンやインターネットが一般的ではなく、社内ではワープロが1課に1台というのが当たり前の時代でした。そこで「効率を高めるためにもっとできることがあるはずだ」という思いが強く芽生え始めました。

私はもともとコンピューターが好きでしたが、現場ではそのスキルを活かす機会は少なかったです。しかし、NTT本社に勤務となった時に業務に必要な会議資料を手作業で作る環境に疑問を感じたことから、自分の状況を打開するため自前のパソコンを使って効率化を進めることにしました。

  • Macintoshなどを業務に活用
  • 上司の了承を得て、NTT-PCコミュニケーションズが運営する電子掲示板の領域を借り、支社向けに資料を配布する運用を開始
  • WordやExcelがない時代でも、MS-DOSや自作のデータファイルで資料を共有する仕組みを構築

当時は“パソコンオタク”と揶揄されましたが、「通信会社がワープロ中心ではいけない」という強い危機感と、“業務を効率化したい”という純粋な興味が私を突き動かしました。

 

退職された経緯を教えてください

当時はバブル崩壊の直後で、社会全体が大きく揺らいでいた時期でした。

そんな中、家庭の事情も重なり、「NTTを退職したい」と当時の上司に思い切って相談しました。ちなみにその上司はのちにNTTの要職に就き、今でも時々一緒に飲みに行く仲です。

時代が変わるタイミングだったことから確かに不安はありましたが、「このままでは自分の好きな道を切り開けない」という思いが勝っていました。

そして1994年、当社を設立しました。
当初はテクニカルライターとして雑誌や企業向けの書籍などの原稿制作などで食いつなぎながら、少しずつ当時のインターネット黎明期の波にも乗り始めました。出版社から依頼されて本の執筆に関わったり、デザイナーを採用して出版支援やデザイン業務を行ったりと、「自分で好きなことを形にする」ための活動を徐々に広げていきました。 気がつけば、インターネットの力を使って「なんでもできる時代になった」というのがスタートアップ期の実感です。

 

創業当初、会社をどのような存在にしようと考えていましたか?

独立した当初から、「世の中にまだないものを自分の手で作りたい」という思いが強くありました。

たとえば、「おくりん坊」という大容量ファイル転送サービスもその1つです。
当時、似たようなサービスはあったかもしれませんが、“容量では世界最強”という圧倒的な特徴を掲げてリリースしました。

「競争に勝つこと自体が目的ではなく、誰かが必要としてくれるものをしっかりと形にする」ことが大切だと考えており、当時はその使いやすさと無料サービスだったこともあり 口コミで広がり、現在までで延べ100万人超の利用者を持つ ロングセラーサービスに成長しました。

 

「おくりん坊」初代サーバーがポリタンクだったと伺いました。その理由を教えてください

はい、初代の「おくりん坊」サーバーは本当にポリタンクを筐体(きょうたい)にしていました。

 

 

もともと、当時のMac G3が半透明のポリタンクのような形状をしていたことがきっかけで、「それならいっそ本物のポリタンクで作ってみよう」と思い立ったのが始まりです。
身近にあったポリタンクをガバッとくり抜き、基板やハードディスクを詰め込んでサーバーに改造したのですが、想像以上のインパクトがあったことから、映画『タンク・ガール』にあやかって「タンクボーイ」と名付けて運用していました。

その延長で、プランターを2つ組み合わせてサーバーケースにしたり、さまざまな日用品を改造してPC筐体にしたりと、かなりの遊び心満載でサーバーを作っていました。
今思えばかなり破天荒でしたが、「こんなことまでやるのか!」と注目してもらえたのも事実で、その頃は出版社から本の執筆依頼が来たりもしました。

 

独立後は、本当にやりたいことを次々と実現されたんですね

そうですね。NTTを退職した当時は、「もう何でも自由にやろう」と思っていました。
大企業では当然ですが、どうしても規制や予算、収益性の基準などが厳しく、実現したいことがあっても制約が多くありました。

「今になってみれば、在籍中にやっておけばよかった」と思うこともありますが、退職後はとにかくなんでも自分のアイデアをそのまま形にできる環境だったので、思い切りやりたいことに挑戦してきました。

会社を創ったばかりの頃は、遠慮せず、自分の意思で動いて形にする――その自由さこそが最大の価値だったと感じています。

 

経営者として苦労したエピソードがあれば教えてください

創業当初はごく少人数で動いていたため、意思決定や実行スピードも速く、非常にやりやすい環境でした。しかし、事業が軌道に乗り、「世の中にないものを作る」という方針で挑戦を続ける中で、次第に信用力や規模が求められる局面が増えていきました。

大きな案件が舞い込むと、人員を増やさざるを得ませんが、そうすると「せっかく採用したメンバーを十分に活用するために、もっと事業領域を広げよう」という発想にもなります。仕事と組織体制どちらを先につくるかという、まさに鶏と卵の関係です。

さらに、新たな分野へ挑戦すると、当然ながら売上化(マネタイズ)のプロセスも待ってくれません。既存事業で安定的に稼ぎつつ、新しい挑戦を組み込む。その両立のバランスをとることこそ、一番難しく、かつ重要なポイントだと感じています。

正直、創業時のような“思いつきで即アクション”とはいきませんが、それでも大手企業よりは柔軟なスピード感があると考えています。
どんな時も、

  • “面白い仕事”に即応できる体制をつくり続けること
  • その挑戦を支えてくれる社員一人ひとりを大切にすること

この両立を、今もなお経営者として心掛けています。

 

社員の働きやすさのために心がけていることはありますか?

働く環境づくりについては、時代の変化や社員のライフスタイルに合わせて柔軟に対応することを大切にしています。

たとえば新型コロナウイルスの感染拡大時には、いち早く全社員をテレワークへ移行しました。業務内容から見ても在宅勤務は比較的実現しやすい体制でしたが、同時に「オフィスに集まる意味」や「出社の価値」も改めて見直すきっかけにもなりました。

そこで、出社する必要がある場面では、働く場所そのものを“行きたくなる空間”にしようと決め、オフィスを大幅にリニューアル。床から家具まで、木の質感を生かした手づくりの内装に刷新しました。まるでカフェのような雰囲気の中で仕事ができるようにし、柔らかさと創造性を感じられる空間づくりにこだわっています。

また、テレワーク環境でもスムーズに働けるよう、ノートPCの全社員支給や、社内システム・コミュニケーションインフラの整備なども進めました。出社・在宅どちらを選んでも、生産性を損なわない環境づくりを心がけています。

社員一人ひとりが、心地よい空間で、自由にアイデアを出し合える環境をつくること。その積み重ねこそが、事業やプロダクトの源泉になると考えています。

 

今後の展望についてお聞かせください

私自身70歳を迎え、事業のバトンを次の世代に引き継ぐことを真剣に考える時期に差しかかっています。今いるメンバーたちはフロントでしっかりと活躍してくれていますし、彼らが中心となってビジネスを動かせていることには大きな手応えがあります。

そのため、あと10年、事業第一線で動けるかどうかは確約できませんが、「私がいなくなっても動く組織」を育てることが今の経営における大きなテーマです。

事業としては、単発の案件に依存するのではなく、持続可能なビジネスモデルを築いていくことが肝心だと感じています。受託による大きな仕事ももちろん大切ですが、今後を見据えて、プロダクト開発やストック型ビジネスの比重も高めていきたいです。

完璧な正解というものはないかもしれませんが、「続いていく組織」をつくることは、今の私にとって大きな挑戦であり、願いでもあります。

そして、ビット・パークは、「全方位死角なし」であるところが強みです。創業期はクリエイティブ中心の会社でしたが、時代の変化に合わせて、システム開発やネットワーク運用のエンジニアもそろえ、現在では複数の領域を横断してサービスを提供できる体制が整っています。

「デザインだけ」「システムだけ」では解決できない課題にこそ、ビット・パークの強みが発揮される――そんな場面が増えてきました。

たとえば、ネットワークインフラとシステムの開発に加え、UI/UXを考慮したデザインまで、ワンストップで対応できるケースも多くあります。「できないことを探すより、できる可能性を見出す」というのが、私たちのスタイルです。

もちろん苦手分野が全くないわけではありません。ただ、複数の視点を持つことで、お客様の課題に多角的に向き合える――そこにこそ、私たちの価値があると思っています。

変化し続ける市場の中でも、まだまだビット・パークには発展の余地があると感じていますし、引き続き柔軟な姿勢で「面白いこと」を追求し続けていきます。

 

他の経営者におすすめの本を教えてください

私が独立したばかりの頃に大きな影響を受けたのが、桜井 淑敏さんという、HONDAでF1プロジェクトを牽引したエンジニアの方が書かれた『ゼロからの挑戦: 私はいかにしてF1で世界を制したか』です。残念ながら現在は絶版になっています。

桜井さんは、本田宗一郎氏のもとでCVCCエンジンの開発などを手がけた方で、その後、アイルトン・セナらとともに「黄金のF1時代」を築いた人物でもあります。私はこの本で語られている「不可能と言われても挑戦し続ける姿勢」に強い衝撃を受けました。

そして、私が創業時に特に心に響いたのは、「できないと言う前に、まずやってみる。解決策は必ず自分の中にある」という文です。この考え方は、まさに今のビット・パークの企業姿勢にも通じています。

 

実は、当社のロゴである「逆さまQ」もこの思想にあやかっていて、「問題が明確になった瞬間、その答えはもう見えている」というメッセージを込めています。

 

 

問題をひっくり返して見ると解決策も見える――そんな逆転の発想から着想したものです。

チャレンジする者を後押ししてくれる姿勢がこの本には詰まっていましたので、起業や挑戦のタイミングにいる方にはぜひ読んでいただきたいです。

『ゼロからの挑戦: 私はいかにしてF1で世界を制したか』桜井 淑敏 (著)

https://www.amazon.co.jp/dp/4396610238

投稿者プロフィール

『社長の履歴書』編集部
『社長の履歴書』編集部
企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。

企業出版のノウハウを活かした記事制作を行うことで、社長のブランディング、企業の信頼度向上に貢献してまいります。