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イーエスジーテクノロジーズ株式会社代表 毛利 元氏

  • 12/09/2025
  • 12/08/2025
  • 仕事
  • 22回

今回はイーエスジーテクノロジーズ株式会社代表、毛利 元氏にお話を伺ってきました。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

 

会社名称 イーエスジーテクノロジーズ株式会社
代表者 毛利 元
設立 創業             2010年 8月

設立             2020年 10月

主な事業 再生可能エネルギー事業

太陽光発電、バイオマス発電、小水力発電に関するコンサルティング

省エネルギー事業

大型業務用空調・冷蔵・冷凍機の消費電力・CO2削減装置[αESG]の調査・検証・販売

蓄電池事業

蓄電所に関するコンサルティング

業務受託事業

再生可能エネルギーを使用した事業所や施設の設置、建設へ向けたコンサルティング

省エネルギー型施設等の整備や運用管理のコンサルティング

蓄電所建設、運用管理のコンサルティング

農林業

耕作放棄地への植樹事業、桑栽培事業

環境教育事業

社員数 16名(契約社員含む)(取材時)
会社所在地 〒103-0025 東京都中央区日本橋茅場町1丁目4番6号 木村實業第二ビル2階
会社HP https://esg-t.jp/

 

事業紹介をお願いします

イーエスジーテクノロジーズは、「世の中の役に立つ」ことを企業理念に、お客様が必要とする商品・サービス・情報を積極的に提供することで、自然環境や地域社会、人にやさしい持続可能な世界の創造・発展に貢献しています。

未来に広がるクリーンエネルギーを創ることや、消費電力の削減による省エネルギーを実現することで、日本政府の温室効果ガス排出削減目標達成の一翼を担っていきます。

 

現在特に注力されている事業を教えてください

現在、当社が最も力を入れているのは、メタン発酵装置によるバイオガス発電事業です。
この取り組みは、今後3年、5年先には日本全体のエネルギー構造を変える可能性を持つ、大きなプロジェクトだと考えています。

もともとは、当社が共同開発した小型メタン発酵装置を学校などに寄贈することから始まりました。
一般的には「寄贈して終わり」と思われがちですが、私たちはそこに未来への大きな可能性を見ています。
たとえば、岐阜県内では1万2,000頭もの飛騨牛が飼育されており、また千葉県旭市では食品メーカーの製造工程で発生する残渣(商品にならない部分)が産業廃棄物として処理されています。
これらを再生可能エネルギーの原料として活用し、エネルギーを「つくる」仕組みを社会に広げていくことが私たちの狙いです。

特に畜産業では、牛や馬の糞尿処理が大きな課題になっています。そこで、岐阜県の大垣養老高校では、当社の小型メタン発酵装置を使い、生徒たちが日々、糞尿や生ごみを投入してガス濃度を測定しています。発酵後に残る液体(当社では“液肥”と呼んでいます)を校内の畑にまき、小松菜などの生育状況を比較しながら、どの程度の量が最適かを研究しています。また、牛の糞尿単体だけでなく、ビスケットやお米、砂糖などを混ぜたときにどの原料が最も高いカロリーガスを生み出すかという実験も行っています。
この取り組みには京都大学の先生にもご協力いただき、共同でデータを収集・検証しています。

この技術を活用すれば、今後50年のうちに、全国各地で小型から中型のバイオガス発電所を普及させることが可能です。
廃棄物をエネルギーへと循環させるこの取り組みこそ、当社が「これからの日本を変える」と信じて取り組んでいるプロジェクトです。

 

素晴らしい事業ですね

ありがとうございます。実はバイオガス発電事業と並行して、現在もう一つ注力しているのが「牛の飼料の国産化」です。

近年、ウクライナ情勢などの影響で小麦やトウモロコシの価格が高騰し、輸入飼料のコストが大きな課題になっています。
一般的に、牛を1頭育てるには約30万円の飼料費がかかりますが、現在はその倍近くまで上昇しています。販売価格が80〜100万円前後であることを考えると、利益がほとんど残らない状況です。その結果、子牛が市場でほとんど値段がつかないという事例も発生しています。たとえば、通常30万円ほどで取引される子牛が、熊本の市場では1,000円の値すらつかなかったこともありました。

こうした状況を受け、当社では飼料の国産化を進めることにしました。

その一環として注目しているのが、国内で増え続ける「荒廃農地・耕作放棄地の再生」です。
高齢化や後継者不足により、稲作を続けられなくなった農家が増えています。お米を作っていた農地(いわゆる“一種農地”)は国の補助金で整備されているため、耕作が途絶えると補助金を返還しなければならず、自治体にとっても大きな問題となっています。

しかし現実には、農業を続けたくても人手が足りず、土地をそのままにしてしまうケースが少なくありません。
そうした休耕地や放棄地に新たな作物を植え、地域資源として再生させる取り組みを当社で進めています。
この活動は、環境面だけでなく、地域の雇用創出や農業再生にもつながるものです。

 

どのような作物を植えるのでしょうか?

現在、岐阜県内で「畜産飼料用植物の栽培による耕作放棄地の再生」に取り組んでいます。
その中で注目しているのが、荒廃農地や放棄地の増加が深刻な課題となっている面積の広い地域です。
そこで当社は岐阜県と連携し、放棄地の場所を共有してもらいながら、順次畜産飼料用植物を植える活動を進めています。この植物は、かつて養蚕業が盛んだった時代には日本各地で栽培されていました。しかし、合成繊維の普及によって養蚕業が衰退し、畑も姿を消しました。
ところが、この植物は手間がかからず、環境変化にも強い植物です。放置しても育つ生命力の強さから、荒れた土地の再生に最適な作物だと考えています。また、この地域ではトマトやリンゴ、ほうれん草などの農産物が名産ですが、これらの加工過程で出る搾りかすや規格外品は、産業廃棄物として処理されてきました。当社では、こうした「捨てられていた資源」と畜産飼料用植物を組み合わせ、発酵させて牛の飼料として再利用しています。
この畜産飼料用植物は栄養価が非常に高く、人間の健康食品としても注目されるほどです。この高い栄養価を活かしつつ、地域の農産残渣と掛け合わせることで、輸入に頼らない国産飼料の新しいモデルをつくり出しています。

こうした取り組みは、環境・畜産・農業という3つの産業を横断しながら、地域全体を巻き込む循環型のエコシステムの構築につながっています。牛の飼料の高騰については度々ニュースでも取り上げられていますし、とても画期的な事業だと感じます。

さらに、この取り組みは「牛 → 発酵 → 電力 → 肥料 → 作物 → 飼料」という完全な循環型のエコシステムとして構築されています。
牛が食べた飼料の排泄物からメタンガスを発生させて発電し、その発電で得られた電力を岐阜県内で買い取ります。さらに、メタン発酵の過程で出る副産物(液肥)は畑に還元し、作物の生育に利用しています。その作物から出た食品残渣を再び飼料に戻すことで、地域内での資源循環が完成する仕組みです。

また、この畑の上には太陽光パネルを設置しています。農作業時の直射日光を和らげる日陰効果を持たせながら、発電による売電収益を得る「ソーラーシェアリング型農業」のモデルです。ここで生まれた電気も県内で地産地消の形で買い取る仕組みとなっており、地域全体が一体となった循環経済を目指しています。この地域でのモデルを皮切りに、今後は米沢牛・松阪牛・佐賀牛といった全国のブランド牛地域にも展開していく計画です。大手企業もバイオガス事業に取り組んでいますが、多くは原料調達や品質管理の面で課題を抱えています。その点、当社は地域の農家・自治体・学校と密接に連携し、現地発の循環モデルを構築できていることが最大の強みです。

 

バイオガス発電事業は日本ではあまり見かけませんが、ハードルが高いのでしょうか?

そうですね。実際、同様の取り組みは大手企業も試みていますが、成功している事例はほとんどありません。
理由はいくつかありますが、最大の課題はやはり発電プラントの実績と技術的信頼性です。

多くの企業は日本国内で独自の仕組みを構築しようとしていますが、メタンガスの生成効率や運用コストの面で難航しています。
その点、当社は、世界で1,700カ所以上の食品残渣・バイオマス発電施設を運営している、バイオガス発電の分野で確かな実績を持つカナダの企業と正式に契約し、共同で事業を進めています。日本国内でもすでに岡山県と兵庫県で同社の技術を用いた発電所が稼働しており、メタンガスを発生させてエンジンを回し、発電した電気を国や電力会社に販売する仕組みが確立しています。
当社はこの世界標準の技術と国内の地域連携モデルを掛け合わせることで、他社が越えられなかった壁を突破しようとしています。

現状、日本でこの分野の成功事例はほとんどありません。だからこそ、私たちが先頭に立って「バイオマスと再生可能エネルギーの融合モデル」を確立し、5年後、10年後には「バイオマスといえばイージステクノロジーズ」と言われるようになることを目指しています。

このプロジェクトこそが、今、当社が最も力を注いでいる挑戦です。

 

ちなみに、この事業を始めるきっかけはどのようなものだったのでしょうか?

きっかけは、2008年のリーマンショックの頃にさかのぼります。
当時から私は太陽光発電の建設事業に携わっており、これまでに全国で約600基の発電所を手がけてきました。その総発電量は、関東で言えば藤沢市全域の家庭を照らせるほどの規模になります。

当時、国が再生可能エネルギーを買い取る「FIT制度(固定価格買取制度)」が始まり、対象となるのが太陽光・風力・水力・バイオマスの4種類でした。太陽光には長く関わってきましたが、風力は環境条件や設置コストなどの面で課題が多く、現実的ではないと感じていました。一方で、水力とバイオマスには強い関心を持っており、実際に自社で小水力発電所の運営にも取り組んできました。

当初は、木を伐採して燃焼させ、その熱やガスを使って発電する木質バイオマスに注目していました。
しかし、日本では山林資源は豊富でも、「木を伐る人」が不足しており、持続的な事業化は難しいという壁に直面しました。

その中で見えてきたのが、畜産における糞尿処理の課題です。

全国どこに行っても、酪農や畜産農家がこの問題に悩まされており、「もしこの排泄物を有効利用できれば、社会的にも経済的にも大きな価値を生み出せるのではないか」と考えるようになりました。そして決定的な転機となったのは、カナダの企業との出会いです。「こことなら日本でも本格的に実現できる」と確信し、協業を決めました。

太陽光発電は競合も多く、土地の確保やブローカーの介在などで複雑になりがちですが、その点、糞尿処理を基盤としたバイオマス発電は競合がほとんど存在せず、社会的意義も大きい事業です。私はこの分野こそ、次のエネルギーの主役になると確信しています。

 

当社の取り組みは下記サイトをご参照ください。

岐阜県立大垣養老高校との取り組みについて①:https://esg-t.jp/social_contributions/2025/07/1373/

食品残さバイオガス発電事業:https://esg-t.jp/business/renewable/biomass/

 

ここからは毛利社長のことをお聞かせください。学生時代に打ち込んだことはありますか?

私が学生時代に最も熱中していたのは、鉄道と鉄道模型 です。子どもの頃から鉄道が大好きで、お年玉をもらうと必ず模型を買い足していました。当時と比べると、いまは模型の価格が15倍、20倍ほどになっているものもあるようです。

一方、スポーツは決して得意ではありませんでした。中学校ではクラスメイトと野球チームをつくり、私はセカンドを守っていましたが、正直なところ、実力はチームで一番下だったように思います。また、中学ではテニス部に入ったものの、グラウンドを十数周走らされる練習がどうしても苦手で、すぐに辞めてしまいました。

しかし、高校に入って状況が少し変わりました。中学3年の時点で身長が150センチほどしかなく、母から「背が低いと将来困るわよ」と言われ、縄跳びなどの運動も勧められていました。そこで、英語タイプ部に入ると家族には告げつつ、実際にはバスケットボール部 に入部しました。バスケをやれば背が伸びると聞いていたためです。

実は知らずに入ったのですが、バスケットボール部は近畿大会でベスト8に入るほどの強豪校で、練習は非常に厳しいものでした。しかし、日々練習を続ける中で少しずつ体力がつき、1年を終える頃にはシュート練習でも成果が出るようになりました。

その成果を最も実感したのが、高校1年の終わりに行われた校内の長距離走です。私は長距離が大の苦手でしたが、いざ走ってみると想像以上に速く、クラスの運動部のメンバーより前を走っていました。「バスケの練習で、これほど体力がついていたのか」と、自分自身も驚いた瞬間でした。高校では強豪チームの中でスタメンに入ることはありませんでしたが、基礎体力は大きく向上し、大きな自信になりました。その後、大学進学後はバスケではなくアメリカンフットボール部に所属し、4年間楽しく活動しました。走力と体力には誰よりも自信があり、ここでもスポーツを通じて大きく成長することができました。

 

新卒ではどのような会社に入られたのでしょうか?

新卒では、当時大阪の地場証券会社と九州の証券会社が合併して誕生した日の出証券という証券会社に入社しました。
新入社員は23名ほどで、私はそこで営業マンとしてキャリアをスタートさせました。

ただ、当時の私は対人恐怖症・赤面症の傾向があり、営業に強い苦手意識を持っていました。そのため入社1年目はほとんど仕事に身が入らず、同期の1人と一緒にサボる日々が続いていました。午前中は喫茶店のテレビゲームで時間を潰し、昼は家の近くのスーパーで惣菜を買って自宅で食事し、午後は眠り、夕方から電話帳をめくって訪問先を適当に選び、日報だけを形にするという生活でした。しかしその期間が3年近く続くと、さすがに「このままではいけない」と思うようになりました。たまたま昼のワイドショーで、ノイローゼになった会社員が事件を起こしたニュースを見て、「自分も同じ道をたどるのではないか」と不安が増していきました。

そこで同期と話し合い、ようやく真面目に新規開拓を始めるようになりました。

月・水・金は彼の担当エリア、火・木・土は私の担当エリアに分けて訪問することにしたのですが、彼の担当日に私が同行すると比較的受注が取れるようになり、逆に私の担当日の同行はなぜか断られ、結局は単独で営業する日が増えていきました。

それでも、一つひとつ地道に訪問し、親しくなったお客様の家で長く話を聞いていただいたりしながら、徐々に営業の土台を築いていくことができました。

 

実際に営業をされて成果はいかがでしたか?

入社後しばらくして、投資信託の販売キャンペーンが実施され、営業部全体の販売目標が設定されました。部全体でおよそ200万円、10名の営業がいれば1人20万円のノルマといった規模でしたので、これまでは親や親戚、知人の協力でなんとか達成していました。

ところが、ある時期からそのノルマが大幅に引き上げられ、部全体で5,000万円規模、1人あたり250〜400万円を求められる状況になりました。先輩方からも「毛利、このままだと本当に困る。そろそろ腹を括って取ってこい」と言われ、私自身も危機感を覚えました。

営業先が限られるなか、私は電気店と呉服店に狙いを定めました。その中で、ある電気店のおばあさんから「マル優(当時の非課税制度)に使えるならやるわ」と言われ、300万円を4口、合計1,200万円を契約していただけました。慌てて支店に戻り報告すると、部長をはじめ全員が驚き、私自身も大きな自信につながりました。さらに、呉服店でも600万円を契約いただき、結果として私ひとりで営業部ノルマの半分近くを達成することができました。

その後は紹介営業が一気に広がり、次々と新たなお客様をご紹介いただくようになりました。

こうした積み重ねもあり、私は 26か月連続で支店トップの成績を収めました。最終的には、扱う株式売買の規模が大きくなり、在籍していた証券会社では対応しきれなくなったことから、すべてのお客様を引き連れてより大手の証券会社へ移ることになりました。

 

起業したいと思われたタイミングはいつ頃だったのでしょうか?

証券会社に8年間勤めた後、私は損害保険会社に転職しました。

当時、株式市場の暴落を予感していたこと、そして銀行・証券の破綻が相次ぐ時代が来ると考えていたことが背景にあります。また、損保会社から声がかかっていたこともあり、証券会社のお客さまをそのまま保険へつなげられる点にも魅力を感じました。

損保会社では、証券時代のお客様との関係を引き続き活かすことができ、法人営業で初年度からトップの成績を収めることができました。ただ、長く続けるには大きな負荷がかかり、当時思い描いていた「40歳で取締役になる」というキャリアプランからは次第に外れていきました。

そんな時、ある貿易会社の方との出会いが転機となりました。

その方が「面白い商品がある」として持ってきたのが海外の育毛剤でした。日本では薬事法の関係で販売が難しい一方、アメリカでは医師の処方箋が必要な本格的な製品でした。最初は半信半疑でしたが、成分としては非常に効果が期待できるもので、日本ではまだ扱いが少なく、将来的な需要も見込めると感じた私は、個人輸入という形で販売を開始したのです。

この事業は当初かなりの苦労がありましたが、やがてテレビ取材を受けたことをきっかけに大きく広がりました。テレビに紹介されるたびに問い合わせが殺到し、一気に事業として軌道に乗りました。「育毛剤の個人輸入販売」が、私の企業家としての出発点です。

 

そこからどのような経緯で太陽光の事業に進まれたのでしょうか?

育毛剤の個人輸入ビジネスは、当時まだ競合も少なく、最終的には約40億円を売り上げ、大きな利益を得ることができました。その利益を元に、私は「テレビの力」を活かした事業へ挑戦したいと考えるようになりました。ちょうどその頃、どこの企業にも属していない個人でも放送局のチャンネルオーナーになれる時代でした。囲碁将棋チャンネルやゴルフチャンネルのように、専門コンテンツのチャンネルが次々と生まれていたのです。そこで私は東京に出て、「動物・ペット専門チャンネル(スカパー758ch)」の開設に挑戦し、郵政省から放送免許を取得しました。

しかし、この事業は非常に資金がかかり、準備した10億円はすぐに消え、追加資金の調達と運用に奔走する日々となりました。最終的には放送免許ごと事業売却という形で着地させたものの、個人で運営するには難しい領域であることを痛感しました。

その後もいくつか事業に取り組みましたが、理想通りにいかないチャレンジが続きました。そんな中で出会ったのが、太陽光発電の世界です。

当時、私はかつての営業経験から「営業は、本気で通い続ければ結果が出る」という確信がありました。証券マン時代も、結局は“どれだけお客様の元へ足を運べるか”がすべてでした。そうした地道な積み重ねが新しい事業でも活きると感じたのです。

そして再生可能エネルギーのフィット制度が始まり、太陽光発電所の需要が一気に高まりました。そこに大きな可能性を感じ、私はこの分野へ本格的に参入しました。

育毛剤から放送事業、そして太陽光へ──。遠回りに見えるかもしれませんが、すべては 「時代の流れを読み、必要とされるものに挑戦する」 という一貫した思いがベースにあります。

 

経営者として仕事をするなかで、どのような苦労がありましたか?

最も苦労したのは、太陽光事業で得た資金を元手に新規事業へ挑戦した際の出来事です。当時、私は太陽光である程度まとまった資金を得ていたため、ある知人から省エネ機器「αESG」の在庫を引き受けてほしいと強く頼まれました。

「必ず売れるから、差額で利益が出る」と熱心に説得され、毎日のように頼み込まれたこともあり、最終的に在庫を引き受けました。しかし実際には全く売れず、在庫を抱えた人たちから「返金してほしい」という声が多数上がる状況になりました。

最終的には、他の人が抱えていた在庫も含め、すべて私が引き取ることになり、その処理に奔走する日々が続きました。太陽光だけに依存するのも不安があったため、「悪い商品ではなさそうだし、一度本気で取り組んでみよう」と覚悟を決めましたが、実態は非常に厳しく、支払う給与も含めて資金がどんどん減っていきました。

さらに、当初「売る」と約束していた人たちは誰も結果を出さず、むしろ私が資金を持っているからと都合よく利用されるような場面もありました。結果として軌道に乗るまでには約2年半から3年を要し、その間は本当に苦しかったです。

これまで私は、証券会社でも育毛剤事業でも、基本的に“一人で結果を出す”働き方をしてきました。しかし省エネ機器の事業では初めて本格的に組織をつくり、人を育て、結果をともにつくる必要がありました。その過程で「組織をつくること、人を動かすことの難しさ」を骨身に染みて理解しました。これが経営者として最も大きな苦労だったと今でも感じています。

 

今、そのご経験を活かして、組織づくりの面でどのような工夫をされていますか?

正直なところ、私自身が特別な工夫をしたわけではありません。組織を立ち上げた当初は、「社長」という肩書きを任せた人物が組織を整えてくれるものだと思っていたのですが、実際にはほとんど機能しておらず、組織は手つかずの状態でした。

そんな中で会社を支えてくれたのが、現場で働く女性スタッフたちです。彼女たちが主体的に動き、必要な仕組みを整え、コミュニケーションを促し、自然と組織をつくり上げていきました。

結果として、私が大きく手を加えたというよりも、優秀な女性陣に恵まれ、彼女たちの力によって組織が形づくられていったというのが実情です。

 

今の毛利社長のお仕事の「やりがい」は、どのようなところに感じていらっしゃいますか?

一番のやりがいは、人に喜んでもらえることです。この軸はずっと変わりません。

今取り組んでいるバイオマス発電のプロジェクトも、地方自治体から「本当は脱炭素等環境問題に取り組みたいがを予算がない」という声を数多く聞いたことがきっかけで始めました。太陽光を庁舎や駐車場に設置したい、CO₂削減に取り組みたいという思いがあるのに、資金面のハードルで手を付けられない自治体が多い。そこで、自治体の負担ゼロで脱炭素を実現できる仕組みを提案すると、本当に喜んでくださるんです。「そこまでやってくれるんですか?」と打合せが一気に盛り上がることも多々あります。

当社の企業理念は「世の中の役に立つ」。社員全員が、この理念を実感しながら働いています。

人に喜んでもらえる仕事をしていると、自然と周りが助けてくれますし、事業としても不思議なほど“良いこと”が続けて起こります。

日常でも同じで、夕方会社に来てくださったお取引先の方をそのまま近所の中華屋に連れていってご飯をご馳走したり、ちょっとしたことで喜んでもらう機会を大事にしています。

結局、人が喜んでくれる仕事を続ければ、自分にも必ず良い形で返ってきます。そしてお金は後からついてくるものです。今、会社がやっていることは間違いなく世の中の役に立つもので、社員もその価値をしっかり理解しています。

だからこそ、私はもう浮気せず、この事業一本でやり抜くつもりです。

 

他の経営者におすすめの本のご紹介をお願いいたします

これまで私が最も影響を受けたのは、稲盛和夫氏の著書です。お客様として関わりのあった方でもあり、考え方や生き方に強く共感する部分が多く、これまで何冊も読んできました。「人としてどうあるべきか」「仕事にどう向き合うべきか」という本質的な教えが詰まっており、経営に向き合ううえで大きな指針となっています。一部、宗教的な要素に近い表現も見方によってはあるかもしれませんが、それを踏まえても、多くの経営者に学びのある内容だと感じています。

また、最近ある上場企業の社長室を訪れた際に、田中角栄氏に関する書籍が多数並んでおり、強く興味を引かれました。題名までは覚えていませんが、独自の政治力や人心掌握に関する記述から学べる点も多いのではないかと考えています。今後、時間を見つけて読んでみたいと思っています。

ぜひみなさんもご一読ください。

投稿者プロフィール

『社長の履歴書』編集部
『社長の履歴書』編集部
企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。

企業出版のノウハウを活かした記事制作を行うことで、社長のブランディング、企業の信頼度向上に貢献してまいります。