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株式会社ビーエムシー代表 青山 徹氏

  • 10/03/2025
  • 10/02/2025
  • 仕事
  • 13回

今回は株式会社ビーエムシー代表、青山 徹氏にお話を伺ってきました。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

 

会社名称 株式会社ビーエムシー
代表者 青山 徹
設立 2014年11月4日
主な事業 (1)建築工事の設計、施工、管理及び請負業

(2)土木工事及び、その付帯工事の施工並びに請負業

(3)家具の製作、販売及び輸入業務

(4)古物の売買

(5)トレーラーハウスの設計・製造・販売業務

(6)損害保険代理業

(7)生命保険の募集に関する業務

(8)少額短期保険業者が引き受ける保険の募集に係る業務

(9)前各号に付帯関連する一切の事業

社員数 3名(取材時)
会社所在地 〒444-2136 愛知県岡崎市上里一丁目3番地2
会社HP https://bmc-a.com/

https://bmc-ugokuie.com/

 

事業紹介をお願いします

株式会社ビーエムシーは2014年に創業した会社です。もともと建築業、特に住宅建築を手がけてきましたが、その中でトレーラーハウスと出会い、トレーラーハウス事業をスタートしました。住宅建築はどうしても地域単位での仕事になるため市場規模が限られてしまいますが、トレーラーハウスは全国展開が可能であり、大きな市場が広がっています。そうした可能性を感じ、トレーラーハウス啓蒙のために情報発信を積極的に行いたいと考えるようになりました。

さらに、2024年には能登半島地震の仮設住宅として、一般社団法人日本モバイル建築協会からの依頼でユニットハウス42棟を初めて製作・納品し、その際に大きな手応えを感じました。多くの企業が仮設住宅を製作していますが、品質の精度は多種多様です。しかし、当社は常に品質にこだわっており、他社と比較しても他にはない性能を兼ね備えたものを造ることができると確信しました。

この経験を経て、ユニットハウスを商品化し、全国に発信していこうと決意しました。現在はトレーラーハウスだけでなく、ユニットハウスという新たな商品ラインも加え、事業をさらにアップデートして展開しています。

 

ビーエムシーの家づくりはどのようなところにこだわっていますか?

当社は、創業以来「木造」にこだわった家づくりを行ってきました。木造は耐久年数が短いというイメージを持たれる方も多いかもしれませんが、きちんとした施工を施せばむしろ鉄骨よりも耐久性を高めることができます。例えば、鉄骨造は壁内部の結露が発生しやすい一方、木造は結露しにくく、適切な断熱施工を行えば長期間快適に住むことができます。加えて、木造は断熱性能にも優れており、住む人にとって大きなメリットとなるのです。

さらに、当社が手がけるユニットハウスは「リユース可能」である点が特徴です。複数のユニットを組み合わせて平屋を構成するこの住宅は移動可能で、次の設置場所でも同じ性能のまま再利用できます。また、完成品をそのまま搬入するため、現地で一から建てる必要がありません。その分品質が安定していますし、施主様は施工品質に不安を感じることなく安心して暮らすことができます。

また、当社では「建てる責任」だけでなく「壊さない責任」も大切にしています。木造でつくることで炭素排出を抑え、さらに解体せず再利用することで新たな排出を防ぐ。これは建築に携わる者ができる最大のカーボンニュートラルだと考えています。今後も高気密高断熱な住まいづくりに挑戦するとともに、地球環境にも配慮した建築を進めていきます。

 

当社のトレーラーハウス、ユニットハウスの詳細については各URLをご参照ください。

コーポレートサイト・・・https://bmc-a.com/

トレーラーハウス(ユニットハウス)・・・https://bmc-ugokuie.com/

 

ここからは青山社長のことをお聞かせください。学生時代に打ち込んだことはありますか?

学生時代は、ひたすら陸上競技に打ち込んでいました。中学時代、50メートル走を計測したところそこそこ速かったことがきっかけで、陸上部の先生から声をかけられ、そのまま陸上部に入部しました。本当は野球をやりたかったのですが、ほぼ強制的に陸上部に入ることになりました。そのため、高校に進学した時は今度こそ野球部に入ろうと思っていたのですが、またしても顧問の先生に半ば強引に陸上部へと誘われました。中学でやっと陸上から解放されたと思った矢先だったので少し複雑な気持ちでしたが、結局高校時代も陸上一色の毎日を過ごしました。

 

子どもの頃の将来の夢は何でしたか?

実は、もともとは航空技師になりたいと思っていました。子どもの頃から飛行機が大好きだったので本当はその道に進みたかったのですが、大学に進学するお金もなく、現実的に難しいと感じました。

また、当時の私の家はとても古く、友達を呼ぶのも恥ずかしいほどでした。そんな環境で育ったからこそ、「いつか自分の家を建てたい」という思いが強く芽生えました。そうした気持ちが、建築士を目指すきっかけになったのです。

そして豊橋工業高校建築科に進みました。特に構造力学が好きでしたね。梁に力がかかったとき根元にどれくらいの荷重がかかるか、といった力学的な計算に夢中になり、数値で物事を解き明かせるところに大きな魅力を感じていました。


社会人時代のご経歴とお仕事の内容について教えてください

高校卒業後、豊橋にある中堅の建設会社に入社しました。当時、設計事務所に就職すると月給は6〜7万円ほどでしたが、中堅の建設会社なら9万円と少し高かったことが決め手になりました。家が貧しかったこともあり、少しでも給料が高いところに行きたいという思いが強かったです。

そして、現場監督として働き始めました。今で言えば完全にブラックといえる働き方で月に1回しか休みがなく、夜は深夜0時や1時まで仕事。翌朝は7時には現場事務所に行かなければならない生活でした。それでも若さゆえか、友人と朝までお酒を飲んで、そのまま現場に直行するような日々を過ごしていました。

 

社会人時代に経験したお仕事のなかで「この経験があったからいまの自分がいる」または「この経験が今の事業に活きている」エピソードはお持ちでしょうか?

本当に語りつくせないほど様々な経験をしましたが、印象に強く残っているのは辛かった記憶です。

最初に担当したのは高校の建設工事でしたが、工期が厳しく、官公庁案件ならではの細かい管理もあり、ほとんど眠れない日々が続きました。

また、当時の職人さんたちは気性が荒く、現場監督はストレス発散の的にされていました。私も実際に殴られたり、足場の上から金槌が落ちてきたこともありました。他にも、現場には常時30人ほどの職人がいるのですが、昼休みには事務所で博打が始まります。そこに無理やり参加させられ、負けると10時と15時の休憩時に全員分のジュースをおごらされました。当時でも1本100円ほどするのでそれが数十人分となるとすぐにスッカラカンになってしまうのですが、だからといって会社が経費で落としてくれるわけでもなかったので、本当に懐が寂しかったです。

ちなみに、なぜ職人さんたちは私を標的にしていたのかというと、「若くて生意気に見えたから気に入らなかった」という単純な理由でした。私も昔の自分は本当に生意気だったなと感じます。昔から老けて見られるタイプでしたし、さらに間違いを見つけるとすぐ上司に意見してしまう性格だったため、敵も多く作りました。しかし、理解を示してくれる味方もいました。

今思えば、あの現場での理不尽な経験が私をハングリーにし、「絶対に見返してやろう」と強い気持ちを持てるようになった原点だったと思います。

 

いつ頃から起業したいと考えていたのでしょうか?

起業への思いは、高校に入る前から持っていました。実家が経済的に苦しかったこともあり、「自分で家を建てたい」「大きく稼ぎたい」という気持ちが原動力でしたが、働いて何年で起業する、といった明確な時期は考えていませんでしたね。

最初に入社した建設会社では仕事を覚えることが最優先だったので上司の指示に従って働いていましたが、次第に納得できないことに対して意見せずにはいられなくなり、上司と衝突して退職せざるを得なくなりました。その後、鉄骨系の会社に転職し、工場やアパート、幼稚園などを手掛けるようになりました。しかし、その会社でも仕事が減ってしまい、ただ給料をもらうだけの状況が嫌で、自ら辞めることを決断しました。

ですが、この頃から少しずつ戦略的にキャリアを考えるようになり、「鉄筋コンクリートも学んだ、鉄骨も学んだ。次は木造を学ぼう」と思うようになりました。そうして木造建築に取り組むことで建設の主要な工法を一通り経験することができました。ダムと橋以外はほとんどの建物をつくったと言えるほど、多様な現場に携わってきたと思います。

現場監督として15現場を同時に抱えていた時期もあり、鉄筋コンクリートでも鉄骨でも木造でも、忙しさは変わらず常に走り続けてきました。もう44年間ずっと忙しいままですが、その分、家族には多くの苦労をかけてしまったと感じています。

 

最初に起業したときの経緯を教えてください

1992年にビーエムシーの前身となるトーア建設を創業しました。

最後に勤めた会社では、社長のもとで仕事を覚えながらもっと実力を磨こうと考えていました。ただ、私は自分の成果をきちんと評価してほしいタイプで、毎年ボーナスをもらうたびに自分が担当した現場の実績を社長に見せては「この成果に対して、どのような査定をいただいたのか」「どれくらい昇給するのか」と尋ねていました。

入社当初は「1年目は何も言わず、給与も社長にお任せします。その代わり1年経ったら意見を言わせていただきます」と宣言していたので、1年後から毎年そのやり取りを繰り返しました。私が担当する工事の年間予算は3億円ほどで、会社に残る利益は8,000万円。それなのに私の年収はわずか250万円でした。10万円でも昇給してもらえれば納得できたのですが、社長からは「今は夏だから、冬に面倒見てやる」と言われ、冬になっても同じことを繰り返すだけ。2年続けても改善が見られず、最終的に「お前も十分もらっているんだから、これでいいじゃないか」と言われてしまいました。

私は毎朝6時半に会社へ行き、暖房や電気をつけてみんなが来るのを待ち、朝礼後は夜遅くまで働き、図面も書き続けました。さらに夜中に社長と飲みに行き、場のセッティングまで手伝っていました。そうした生活が当たり前とされるなら、自分はここに居続ける意味がないと感じ、「では辞めます」と決意しました。

妻に相談する間もなく退職したのですが、丁度家を建てたばかりで貯金はわずか40万円。それをすべて預かり、「まずはこのお金で事務所を作る。ミルク代とオムツ代は何とか稼ぐ」と約束しました。自分で小さな事務所を建てたものの、起業資金40万円はあっという間に尽き、残高0円の状態からのスタートでした。

本来はもう2〜3年は修業を積むつもりでしたが、結果的に「成り行きで起業した」という形になりました。

 

右肩上がりで会社が成長していたなか、なぜ事業を畳もうと思われたのでしょうか?

いわゆる「企業20年神話」と言われるものに自分も乗ってしまったのだと思います。創業当初は半年ほど仕事がほとんどなく、飲まず食わずで苦しい時期を過ごしました。それでも少しずつ下請けの仕事が入るようになり、やがて「下請けだけでは満足できない、自分で元請けの仕事をやりたい」と思うようになりました。

そこから元請け案件を受けるようになり、売上は右肩上がりで伸び続けました。1億円、2億円、3億円と順調に増え、最終的には15億円近くにまで成長しましたが、東日本大震災が大きな転機となりました。

資材の高騰や供給不足、トヨタ系企業での残業削減などが重なり、3月期に予定していた3億円分の契約が、実際には3,000万円しか成立せず、売上が一気に落ち込みました。その結果、販管費がまかなえなくなり、わずか5〜6か月で1億円近い資金が失われてしまったのです。

今振り返ると、経営能力の不足が最大の原因だったと反省しています。右肩上がりで成長していくと錯覚してしまい、十分な内部留保をせず、体力以上の勝負をしてしまっていました。ハウスメーカーに負けたくない一心で、無理を重ねていたのです。

最終的には、当時支援してくれていたコンサルタントから「まだ50歳だ。再チャレンジできるから、ここは一度たたもう」とアドバイスを受け、苦渋の決断で会社を畳むことになりました。続ける選択肢もあったのかもしれませんが、あの時の判断は自分にとって必要な区切りだったと今は思います。

 

そこからどのような経緯でビーエムシーを設立することになったのでしょうか?

2回目の起業は、決して「起業したい」という思いから始まったわけではありませんでした。きっかけは、30年来付き合いのある社長から「本社を建てたいから、何とかしてくれ」と頼まれたことです。

当時の私は勤め人で、特定建設業の許可も持っていない会社に在籍していたため、大規模物件を請け負うことはできませんでした。正直に事情を話し、「私が現場だけ見るので、大手に頼んではどうですか」と提案したところ、社長に激しく叱責されました。
「俺が本社を作ると言っているのに、お前がやらずにどうするんだ!」とまで言われ、男として引き下がれないと感じ覚悟を決めました。

特定建設業の許可を取得するためには自己資本が4,000万円必要でしたが、当時の手元資金はわずか99万円。友人たちに頭を下げ、資金をかき集め、なんとか条件を満たして起業に踏み切りました。まさに「起業したいから起業した」のではなく、男としての責任を果たすために起業した形でした。

このような経緯で起業し初年度は4億円の売上を上げましたが、赤字は150万円。思いが強すぎて、採算度外視で建ててしまった結果、利益を出せませんでした。さらに資本金4,000万円でスタートしたため、免税事業者にはならず、いきなり消費税を全額支払わなければならないという現実にも直面しました。

それでも、古くからの仲間や友人たちが仕事を紹介してくれたお陰で、クリニックや病院の建築も任されるようになり、会社は軌道に乗り始めました。そして2年目には黒字化を達成。ただし、前の会社の倒産経験があるため銀行からの融資は難しく、資金は友人からの借り入れと、自らのキャッシュフローで回していました。

 

ビーエムシーを経営するうえで、どのようなことを大切にしていますか?

1社目での倒産を経験したことで、私の家づくりに対する考え方は大きく変わりました。以前は「デザイン重視」で、施主様のニーズよりも「自分たちが良いと思う家をつくる」という姿勢を貫いていました。しかしその結果、売却や将来の資産価値を考えたときに扱いにくい家になってしまうことがあると痛感しました。

そのため、現在は、「資産価値の高い家をつくる」ということを経営方針の軸に据えています。たとえば、家は将来的に売却される可能性もあります。離婚や転勤といったライフイベントが起きても、資産として残る家、売りやすい家の方が施主様にとっても安心であることから、耐震性や断熱性といった基本性能を妥協せず、高性能住宅を標準としています。キッチンや内装などは後から変更できますが、住宅の性能は後から変えることが難しい部分です。だからこそ、私たちは断熱材を抜くなど、性能を下げる要望には応えません。「資産価値を守ることこそが施主様への最大の貢献である」というポジションで、すべての家づくりを行っています。


経営者として仕事をするなかで、どのような苦労がありましたか?

当社を立ち上げてからの最初の苦労は、仕事が取れないことでした。2016年、息子が会社に入社しましたが、仕事が潤沢にあったわけではなく、私が誘ったわけでもありません。とはいえ、せっかく入ってきた息子に仕事を経験させたいという思いもあり、外注に頼らず自分たちで基礎工事を行うなど、極力コストを抑えながら事業を回しました。その年の売上は約2億円と大きくはありませんでしたが、黒字を確保することができたのは大きな自信になりました。

建築物件の施工は苦労も多いですが、その分、完成したときの喜びが大きいため、「苦労した」というより「やり切った」という実感のほうが強いですね。

 

トレーラーハウスやユニットハウスに着目された経緯を教えてください

2016年の熊本地震の前から、私は建築の技術を生かして何か新しい事業ができないかと模索していました。人口減少により新築需要が減り、リフォーム市場が活性化する一方で、大手企業が強い領域に中小企業が飛び込んでも厳しい戦いになることは目に見えていました。「激戦区で戦うより、ニッチな市場で勝負したい」――そんな思いで探していた中で出会ったのが、トレーラーハウスでした。

当時、トレーラーハウスはまだ一般的ではありませんでしたが、これなら自分たちでも取り組めそうだと感じました。ただ、道路交通法やシャーシ構造など、専門知識が必要な分野でもあったため、まずはしっかり勉強を始めました。

そんな折、熊本地震が発生。息子の教育も兼ねて現地に足を運びました。被災地で見た光景は衝撃的で、特にトレーラーハウスが20台ほど並び、すでに被災者が住んでいる姿を目にしたとき、「これだ」と強く確信しました。震災発生からわずか数週間で居住が可能になるというのは仮設住宅にはできないスピード感です。CSR(企業の社会的責任)の観点からも価値があり、企業としての新しい方向性になると確信しました。

そして熊本から戻るとすぐに設計に着手し、試作を開始。これがトレーラーハウス事業のスタートとなりました。

しかし、当時はトレーラーハウス自体のイメージがあまりよくありませんでした。「輸入品で雨漏りするのではないか」といった誤解も多く、認知度も低かったのです。そうした状況で事業を始めたため、最初の1年近くはほとんど受注が取れませんでした。ですが、その2〜3か月後にようやく1件目のお客様が来てくださり、そこから少しずつ広がりました。納品までにさらに半年かかりましたが、これがトレーラーハウス事業のスタートです。

しかしその後も課題は多くありました。特に大きなハードルだったのは「金融」の問題です。トレーラーハウスは動かせるため不動産のように担保設定ができず、銀行から融資を受けにくいのです。富裕層の方に「夏は蓼科、冬は熱海に移動して使ったら面白いですよ」と提案しても、「2件ともその土地で別荘を買えばいいだろ」と一蹴されることもありました。結果として、個人向けではなく、融資が通りやすい事業用に軸足を移す決断をしました。なぜなら事業用であれば銀行融資も利用でき、顧客にとっても導入しやすいからです。

そして現在ではユニットハウス事業も展開しています。ユニットハウスは通常の住宅ローンが利用できるため、個人顧客にも販売しやすく、全国どこにでも発送可能です。建築基準法の適用を受けるため設置場所に制約はあるものの、従来の建築事業よりも地域を限定せずに事業を広げられる点が強みです。

一方、トレーラーハウスには「建築基準法の制約を受けないため、どこでも置ける」という独自のメリットがあります。たとえば相続で山林や旗竿地を譲り受けた人が、家を建てられず草刈りだけを続けているような土地でも設置可能です。貸し出し用として活用することもでき、いわば“落ちたものを拾い上げるざるの網”のような役割を果たします。

現在のビーエムシーは建築事業のノウハウを生かしながら「トレーラーハウス」「ユニットハウス」の両軸で事業を展開することで、地域を選ばず全国にいる顧客の多様なニーズに応えられるようになりました。


今後の展望について教えてください

昔は、私自身も企業経営において「長期ビジョン」や「中期ビジョン」を掲げ、それに沿って進めることが当たり前だと思っていました。ですが、今は将来の見通しがとても立てにくい時代です。そのため、今は長期的なビジョンよりも「時代の流れに乗れるかどうか」が重要だと感じています。企業は常に変化し続けなければ生き残れないと考えました。ユニットハウス事業はまだ参入企業が少なく、特に木造で取り組んでいる会社はほとんどありません。このニッチ市場を広く認知してもらうことができれば、事業としてさらに成長させられると考えています。

そのためには、カスタマイズ性を高めたり、技術的に柔軟に対応できるようにする必要があります。例えば最近では「ホテルやレストランをユニットハウスで作りたい」という相談も増えてきており、こうした新しい挑戦をしっかりと形にできれば、事業のギアが一段上がるだろうと感じています。

今は「何億円売り上げる」「何百億規模にする」といった数値目標よりも、どれだけ多くの人にユニットハウスやトレーラーハウスの価値を知っていただき、ニッチ市場で継続的に事業を続けられるかが重要だと考えています。そして、最終的には社員全員がしっかりとした給料を得られる会社であることが理想です。


他の経営者におすすめの本のご紹介をお願いいたします

昔は松下幸之助さんの本をよく読んでいました。彼の言葉で印象に残っているのは「失敗してもやめなければ、それは失敗ではない。やり続ければ成功になる」という考え方です。この言葉は今でも自分の中で支えになっています。

もう一つ影響を受けたのは、蔵本天外さんの著書『意識が変われば世界が変わる』です。特に「過去は変えられる」という考え方が面白いと感じました。たとえば、昔つらい別れを経験したとしても、今新しい素晴らしい出会いがあれば、その別れはむしろ良いきっかけだったと捉え直せます。つまり、今の自分の意識や考え方次第で、過去の出来事の意味は変わるということです。

この考え方は、私自身が日々の経営や人生で大切にしている姿勢とも重なります。どんな経験も、自分の意識次第で未来につながる糧にできることを再認識した本です。

2冊合わせてぜひご覧ください。

『意識が変われば世界が変わる』藏本 天外 (著)

https://www.amazon.co.jp/dp/4770411162

松下幸之助氏、著書一覧

https://www.amazon.co.jp/stores/%E6%9D%BE%E4%B8%8B-%E5%B9%B8%E4%B9%8B%E5%8A%A9/author/B001I0H3CO

 

投稿者プロフィール

『社長の履歴書』編集部
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企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。

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