今回はアンジェス株式会社創業者、森下竜一氏にお話を伺ってきました。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

会社名称アンジェス株式会社
代表者山田 英
設立1999年12月17日
主な事業遺伝子医薬品の研究開発、希少遺伝性疾患検査受託
社員数54名(2025年6月現在:連結)(取材時)
会社所在地大阪府茨木市彩都あさぎ七丁目7番15号 彩都バイオインキュベータ
会社HPhttps://www.anges.co.jp

アンジェス株式会社はどのような事業を展開されているのでしょうか?

アンジェス株式会社は遺伝子医薬技術を活用し、革新的な医薬品開発に取り組むバイオ製薬企業です。遺伝子医薬のグローバルリーダーを目指し、遺伝子の働きを利用した新しいタイプのバイオ医薬品である遺伝子医薬の開発を行っています。

当社は大阪大学の基礎研究を基に 1999 年の設立以降、肝細胞増殖因子(Hepatocyte Growth Factor:HGF)の医薬品への応用に向けた研究と開発を進めてまいりました。HGF が持つ「血管を新生する」能力を活用し、足の血流が極度に悪化する慢性動脈閉塞症を対象とした HGF 遺伝子治療用製品の開発を現在も進めています。

このほか、アカデミアとの共同研究をとおした医薬品の開発や、バイオベンチャーとの協業による医薬品開発など、これまで製品化されていない新しい作用機序による医薬品の開発を手掛けています。また当社は、国内で承認されていない希少疾患治療薬の導入も進めており、これまでムコ多糖症Ⅵ型治療薬や早老症であるハッチンソン・ギルフォード・プロジェリア症候群及びプロセシング不全性のプロジェロイド・ラミノパチー治療薬の導入実績があります。

一方、2021 年 4 月に開設したアンジェスクリニカルリサーチラボラトリー(ACRL)は、希少遺伝性疾患検査を主目的とした衛生検査所で、現在、拡大新生児スクリーニングを受託しており、新生児の遺伝性疾患の早期発見、治療をサポートしています。世界では新たな医薬品、治療方法等が次々に開発され、現在研究開発の最先端を走るのはゲノム編集という技術です。当社は、2020 年に EmendoBio 社を子会社化して、ゲノム編集の開発にも参入しました。当社は遺伝子医薬の開発、ゲノム編集の開発を推進し、希少遺伝性疾患の早期発見、治療に貢献することをとおし、治療薬を待ち望んでおられる患者さんやそのご家族をはじめ、新たな治療法を待ち望んでいる社会の期待に応えるべく日々努めてまいります。

アンジェスの創業者である森下先生は、現在どのようにアンジェスに携わっていらっしゃるのでしょうか?

現在はメディカルアドバイザーとして、主に研究開発面からアンジェスに関わっています。具体的には、開発パイプラインの拡充に関する助言や、現在臨床試験が進められている遺伝子治療用製品「コラテジェン」に関する医学的なアドバイスなどが中心です。
経営面について何か意見したり、意思決定に関与したりする立場ではなく、あくまで医療・研究の専門家としての役割に専念しています。

メディカルアドバイザーの立場から、読者に強く伝えたいことはありますか?

私の立場から読者の皆様にぜひ知っていただきたいのは、日本で生まれた技術が米国という世界最大の医薬品市場で評価されている点です。


遺伝子治療用製品「コラテジェン」は、日本発の技術でありながら、米国において末梢動脈疾患の治療薬として開発が進められ、米国食品医薬品局(FDA)からブレイクスルーセラピー指定を受けています。

ブレイクスルーセラピー(Breakthrough Therapy Designation)とは、FDAにより重篤な症状の治療を目的とした薬剤の開発と審査を迅速化するために設計された制度のことです。この指定を受けたことは、臨床試験の結果により、その薬剤が臨床的に重要な評価項目において既存の治療法よりも顕著な改善を示す可能性があると認められたこととなります。

今後、このまま開発が進み上市に至れば、日本のベンチャー企業として初めて、遺伝子医薬品を米国市場で本格的に展開する事例になります。
特に遺伝子医薬品は開発規模が大きく、ハードルも高い分野です。その領域でここまで到達している点は、日本の創薬ベンチャーにとって一つの到達点であり、大きな成果だと感じています。

アンジェスの取り組みについての詳細は下記サイトをご参照ください。

https://www.anges.co.jp

ここからは森下先生のことをお聞かせください。幼少期~学生時代に、熱中していたことはありますか?

岡山で生まれ育ち、中学までは地元の学校に通っていました。高校からは東京の武蔵高等学校に進学しましたが、いわゆる進学校でありながら一般的な「受験勉強中心」の学校とは少し違った雰囲気でした。
英語の授業では一年間でサマーセット・モームの作品を一冊読むだけ、世界史も大学レベルの専門的な内容を扱うなど、非常にユニークな教育方針だったと記憶しています。

そうした環境の中で、特定の教科に打ち込むというよりも、さまざまな分野に自然と興味を持つようになりました。物事を一つに絞り込むよりも、幅広く考える姿勢はこの頃に培われたものかもしれません。

その後大阪大学医学部に進み、最初の二年間は比較的まじめに勉強していましたが、その後は勉強一辺倒というより、学生生活そのものを楽しむことに熱中していました。

高校時代は医者ではなく官僚を目指されていたとのことですが、動機はなんだったのでしょうか?

ちょうどその頃、城山三郎の小説『官僚たちの夏』などの影響もあり、国家を支える官僚という存在が一種のブームのように語られていました。また、医師の世界にも「上医は国を医(いや)す」という言葉があり、優れた医師とは個人を診るだけでなく、社会や国全体に貢献する存在だという考え方にも共感したことから、国の仕事のほうが面白そうだと感じ、官僚を目指していました。

ではなぜ医者の道に進んだのでしょうか?

官僚の道に関心を持ってはいましたが、医師になることを明確に「決断した」という感覚は、実はあまりありません。医師になったからといって、必ずしも臨床一筋で進む必要はなく、医師資格を持ったまま行政に関わる道もあります。実際、厚生労働省には「医系技官」という仕組みがあり、医師としてキャリアを積みながら、局長クラスまで務めることも可能です。

そうした選択肢があったこともあり、「まずは医者になっておけばいいのではないか」というのが、当時の率直な考えでした。父親からも、医師になっても行政の道は開けているのだから、と勧められた記憶があります。

結果として医師の道に進みましたが、その時点では将来像を固めていたわけではなく、成り行きの要素も大きかったと思います。

大阪大学医学部卒業後、同大学院を経てスタンフォード大学循環器科へも進まれていますが、海外留学は当初からお考えだったのでしょうか?

当初から「いずれはアメリカで研究したい」と強く考えていたわけではありません。実家が開業医だったことから、どちらかといえば早く家業を継ぐことになるのだろうと、漠然と考えていた程度です。研究者になろうという明確な動機もなく、医学博士の学位が早く取れるという理由で大学院に進んだ、というのが正直なところでした。

スタンフォード大学へ留学することになった経緯も、振り返ってみると偶然の積み重ねです。大学時代は、分子生物学や遺伝子工学といった、現在の生命科学の基盤となる分野が日本に入り始めた時期でしたが、当時は日本国内ではまだ十分に研究できる環境が整っていませんでした。

そのため、これらの分野を学ぶために、当時大阪医科大学(現在の大阪医科薬科大学)にいた宮崎教授のもとに「修行に行ってこい」と送り出されましたが、そこでも最先端の研究が体系的に学べる状況ではありませんでした。しかし、ちょうどその頃、宮崎教授が当時ハーバード大学に在籍していたアメリカの研究者の研究室を訪れて、その研究室で使われていた実験マニュアルを日本に持ち帰ってきたことから、そのマニュアルを手がかりに研究を始めることができました。

当時は今のように丁寧に指導を受けられる環境ではなく、まさに徒弟制度の時代でした。誰かに教えてもらうというよりも、先輩のやり方を見て、後ろについて覚えていくような世界だったと思います。試行錯誤を重ねながら研究を進め、やがて現地の研究者とも直接やり取りをするようになっていきました。

そうしたやり取りの中で、その研究者がハーバード大学からスタンフォード大学へ移ることになり、その流れで留学の話が持ち上がりました。当時、大学に残って研究を続けるのであれば一度は海外で研究するのが自然なキャリアパスだったのです。

その研究者は、後にスタンフォード大学の循環器内科教授、さらに医学部長を務めるなど、米国医学界の中枢で活躍する人物となります。結果的に、そうした人物のもとで研究できたことが、その後の研究者としての考え方や姿勢に大きな影響を与えました。

スタンフォード大学で学ばれたなかで、印象に残っている経験を教えてください

特に強く影響を受けたのは、「再現性」を徹底的に重視する考え方です。自分一人ができただけでは成果とは認められず、誰がやっても同じ結果が出せるようにしなければ意味がない。そのためには、方法論を磨き、他の研究者でも再現できる形にまで落とし込む必要がある、という姿勢が徹底されていました。

また、研究成果が出た際の行動も印象的でした。学会で発表する前に、まず特許部門へ行くよう指示されます。なぜなら研究は発表して終わりではなく、社会にどう実装するかまで含めて考えるものだ、という意識が当たり前のように共有されていたからです。

さらに、研究室を主宰する研究者自身がベンチャー企業を立ち上げ、研究者がそのベンチャーに関わることも珍しくありませんでした。研究と事業が切り離されたものではなく、地続きのものとして捉えられていたのです。

1980年代から1990年代初頭にかけてのアメリカでは、こうした研究環境がごく自然なものとして存在していました。

その後1994年に帰国されて、大阪大学の助教授になられますが、なぜ起業しようと思われたのでしょうか? 起業までの経緯を教えてください

日本に戻った時点では実家を継ぐかどうかという意識はすでに薄れており、研究の道を進むことに迷いはありませんでした。それよりもアメリカで研究と事業が密接につながっていることを学んだことから、この流れを日本でも生かしたいと考えていました。

当時アメリカで取り組んでいたのは、心臓の冠動脈をバルーンで拡張する治療後に起こる「再狭窄」を防ぐ研究です。再狭窄は約4割の患者で起こる大きな医療課題であり、その発生を遺伝子導入によって抑えようとする試みでした。独自の手法にたどり着いたものの、同様の技術についてはすでに東海岸の研究グループが特許を取得し、ベンチャー企業として展開していました。自分たちは後発で、得られた条件も大きなものではありませんでした。

しかしその後、その技術をもとに米国でベンチャー企業が設立され、NASDAQに上場し、大手製薬会社と組んで大規模な臨床試験まで進みましたが、最終的にはフェーズ3で失敗し、事業としては終わりを迎えました。結果的に成功には至りませんでしたが、最先端の研究は大企業が直接担うのではなく、ベンチャーが起点となり、そこから大企業と連携していくというビジネスモデルがアメリカではすでに確立されていることを、身をもって経験しました。

こうした経験を踏まえ、日本に戻ってから何に取り組むべきかを考えた時、アメリカでは実現できなかった「血管を再生させる治療」を形にできないかと思いました。そして血管新生に関わるさまざまな因子を調べる中で、大阪大学の中村敏一教授が発見した肝細胞増殖因子(HGF)に行き着きました。詳しく調べてみると、この技術は特許が十分に活用されておらず、ベンチャーとして展開されていないことが分かりました。

そこで、このHGFを用いた血管新生治療に可能性を見いだし、治療法そのものに関する用途特許を取得しました。1994年頃には、HGF遺伝子を導入することで、閉塞性動脈硬化症に対する治療が可能になることも明らかになり、この特許を基盤としてアンジェスを立ち上げることになります。

アンジェスの創業経緯は特に当時の日本では珍しかったと思いますが、どのように進められたのでしょうか?

先述したように、アメリカではベンチャー企業が起点となり、大手製薬企業と連携して医薬品開発を進めるというビジネスモデルがすでに一定の流れとして確立されていましたが、日本では当時、大学発の創薬ベンチャーそのものがほとんど存在しておらず、このやり方をそのまま持ち込もうとしても簡単にはいきませんでした。

創業当初は手探りの状態が続きましたが、当時の第一製薬株式会社がパートナーとなってくださり、アメリカと同じビジネスモデルで事業をスタートさせることができました。その後、臨床試験が始まった段階で資金調達の手段として株式市場を活用する道を選び、マザーズ市場への上場に至ります。

アンジェスは創業当初から数年後の上場を見据えたスケール感で事業を設計していました。結果として、創業から上場までに要した期間は3年弱と、当時としては異例のスピードでした。日本ではまだ一般的ではなかった創薬ベンチャーのビジネスモデルを前提に、最初からその実現を目指していたことが、アンジェスの大きな特徴でした。

赤字での上場だったそうですが、どのような背景があったのでしょうか?

創薬は研究開発に非常に大きな資金を必要とする事業です。パートナー企業からの資金だけでは到底まかないきれず、継続的に研究を進めるためには、資本市場から資金を調達する仕組みが欠かせません。アメリカで経験したベンチャー企業も設立から数年で上場し、マーケットから資金を集めることを前提としたビジネスモデルでした。

ところが当時の日本ではこうしたモデルの前例がほとんどなく、赤字のまま上場するという発想自体が受け入れられていませんでした。しかし、アメリカでは創薬ベンチャーが赤字であることは珍しくなく、むしろ先行投資が積み上がっていることの裏返しとして捉えられていました。ハイリスクではあるものの、その分リターンも大きいという前提のもと、投資環境が整っていたのです。

日本でも同じような環境をつくらなければ創薬という分野そのものが育たない。そう考え、アンジェスでは創業当初から大手監査法人に監査を依頼し、赤字でも問題なく上場できるよう、ガバナンスや仕組みを整えていき、その結果スピーディーな上場が実現しました。

アンジェスのビジネスモデルはいつ頃確立されたのでしょうか?

まず、アンジェスのビジネスモデルは、大きく四つの柱で構成されています。
ライセンスアウト等のアライアンス(契約)締結時の「契約一時金」、研究開発に対する経済的援助として受け取る「開発協力金」、研究開発の進捗(予め設定されたイベント達成)に応じて受け取る収益である「マイルストーン収入」、そして上市医薬品の売上高の一定割合を受領する「ロイヤリティ収入」です。

これらのビジネスモデルについても、創業当初から意識的に設計していました。私はこれを「創薬ベンチャーにおけるゴールデンスタンダードのビジネスモデル」だと捉えています。創薬や医薬品開発の分野では、研究開発に長い時間と多額の資金が必要になるため、こうした段階的に収益を得るモデルは、国際的にはごく一般的なものです。

一方で、日本では当時も、そして現在に至っても必ずしもこのモデルが十分に理解されているとは言えません。特に、先行投資が大きくなる創薬ビジネスに対して短期的な収益性を求める見方が根強いのが実情です。しかし、創薬やその周辺のビジネスは本質的に非常にクラシカルなモデルであり、時間をかけて価値を積み上げていくものだと考えています。

その前提に立ち、アンジェスでは創業時から研究開発の進捗に応じて段階的に価値を可視化し、事業として成立させていくビジネスモデルを採用してきました。

森下先生の経営に対するお考えをお聞かせください。医師でありながら会社を創業されましたが、ご自身の中でどのように関わるか明確な線引きはあったのでしょうか?

創業者ではありますが、私自身は経営や日々のオペレーションの前面に立つ立場ではありません。以前も形式上は社外取締役という位置づけでしたが、役割としてはあくまで研究開発を統括する、いわばチーフ・サイエンティフィック・オフィサー(CSO)的な立場です。経営やオペレーションについては、専門のスキルを持った人が担うべきだと考えてきました。

そのため、アンジェスでは研究開発と経営・オペレーションを明確に分ける体制を取っています。CEOをはじめとする経営陣についても、創業時から現在に至るまで会社の成長段階に応じて最適な人材がその役割を担ってきました。一人の経営者がすべてを背負うのではなく、フェーズごとに必要な専門性を組み合わせていく、という考え方です。

特にオペレーションは想像以上に手間がかかる分野です。研究開発と同じ感覚で扱えるものではなく、両者を切り分けて進めていくことが重要だと感じています。近年は医師出身で経営に携わる人も増えてきましたが、それでもなお、研究と経営は別の専門性として整理しておく必要があるという点は、創業当初から一貫して意識してきた部分です。

臨床の現場で目の前の患者さんに向き合う医療とは別に、まだ顔の見えない未来の患者さんに向けて研究を続ける中で、費用や制度、環境といった多くの壁に直面しながらも、長年研究を続けてこられた原動力はどこにあるのでしょうか?

医師として、今も日々外来に立っていますが、実際に一人の医師が診ることのできる患者数には限りがあります。多くても数百人程度でしょう。目の前の患者さん一人ひとりと向き合う医療は非常に大切ですが、それだけでは救える人数にはどうしても限界があります。

一方で、研究成果を医薬品として開発し、社会に届けることができれば、はるかに多くの人を治療することが可能になります。さらに保険適用されれば、より多くの患者さんが比較的安価にその治療を受けられるようになる。患者さんにとっても、社会にとっても、そして開発する側にとっても、価値が循環する形が生まれます。

もし、そうした立場に立てる可能性があるのであれば挑戦しない理由はありません。より多くの人を救えるという観点では、研究開発という道を選ぶことは、非常に意味のある選択だと考えています。

もちろん、目の前の患者さんを診る医療が原点であることは変わりませんし、その姿勢を忘れてはいけないと思っています。ただ、個々の患者さんを診ることに関しては、自分よりもはるかに優れた医師が大勢います。たとえば外科医は、直接的に命を救う現場に立ち続けていますし、それぞれの専門に最適な役割があります。

だからこそ、自分にとって最も力を発揮できるポジションはどこなのかを考えることが重要だと思っています。大学という環境に身を置く中で、私にとっての最適解は研究の側にあると感じました。未来の患者さんに向けて、より多くの人を救う可能性を広げること。それが、研究を続けてきた原動力です。

アンジェスとして、今後どのような展望を描いていらっしゃるのか、ぜひお聞かせください

まず最優先のテーマは、遺伝子治療用製品「コラテジェン」です。この申請を確実に進め、承認を得て、上市へとつなげていくことが第一の目標です。

その先には、コラテジェンの可能性をさらに広げていく取り組みがあります。この技術は応用範囲が広く、末梢動脈疾患にとどまらず、他の治療が難しい疾患への適応拡大も視野に入れています。難病領域を中心に、治療の選択肢を増やしていけるのではないかと考えています。

そしてもう一つ重要なのが、新たな技術開発です。コラテジェンに続く次の柱となる技術を育てていくことも、アンジェスにとって欠かせません。一つの成功にとどまらず、継続的に新しい価値を生み出していく。そのための研究開発を、今後も進めていきたいと考えています。

最後に森下先生が他の経営者の方におすすめしたい書籍を教えてください

少し古い作品になりますが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』がおすすめです。中学生の頃に初めて読みましたが、今読み返しても示唆の多い一冊だと感じています。

これからの時代、国家間の緊張や対立は避けられない局面に入っていくと思います。特に中国との関係については、距離の取り方を含め、企業としてどう向き合うのかを真剣に考えなければならない時代になってきました。中国に過度に依存せず、そのうえでどのようにリスクヘッジをしていくのか。これは多くの企業にとって、避けて通れないテーマだと思います。

環境の変化は想像以上に速く、判断を先送りしていると身動きが取れなくなります。資金や人材の問題も含め、簡単には引き返せない状況に置かれている企業も少なくありません。だからこそ、歴史の流れの中で国や組織がどのような判断を重ねてきたのかを学ぶことには、今も意味があるのではないかと思います。

ぜひご一読ください。

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『社長の履歴書』編集部
『社長の履歴書』編集部
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