今回は株式会社ピナイ・インターナショナル代表、茂木哲也氏にお話を伺ってきました。

「社長の履歴書」だけの特別なインタビューです。

ぜひご覧ください!

会社名称株式会社ピナイ・インターナショナル
代表者茂木哲也 
設立2016年7月1日(創業 2013年5月20日)
主な事業家事代行サービス事業(ピナイ家事代行サービス)
社員数200名(うち運営スタッフ27名、家事代行スタッフ173名)
※2025年8月現在 (取材時)
会社所在地〒106-0032 東京都港区六本木3丁目2-1 住友不動産六本木グランドタワー 22階
会社HP ピナイ家事代行サービス HP:https://pinay.jp/
ピナイ家事代行サービス YouTube:https://www.youtube.com/@PinayJp
茂木哲也 X(旧Twitter):https://x.com/tetsuyamoteki

事業紹介をお願いします

株式会社ピナイ・インターナショナルは、日本初のフィリピン人家政婦に特化した家事代行会社です。当社は2013年にピナイ家事代行サービス(旧称:ピナイ家政婦サービス)の運営を開始し、2017年に国家戦略特区内における外国人家事支援人材受け入れの適合事業者「第一号」として認可を受け、東京都・神奈川県、大阪府・兵庫県の一般家庭を中心に家事代行サービスの提供をおこなっております。ピナイ家事代行サービスは、家事代行を通じてお客様に感動を与え、お客様の生活に潤いを与え、笑顔あふれる家庭を作ってまいります。

当初から、フィリピン人スタッフの採用を前提に事業を構想されていたのでしょうか?

実は順番は逆で、最初にあったのは「外国籍人材と一緒に日本を盛り上げたい」という構想でした。「家事代行をやりたい」と思ったことが、この事業の出発点ではありません。

家事代行のビジネスに着目したきっかけは、この構想を実現するために何をやろうかと考えていたタイミングで、ちょうど私の家庭に子どもが生まれ、家事代行サービスを利用するようになったことです。実際に利用してみて本当に素晴らしいサービスだと実感したことから興味を持ち、家事代行について調べ始めました。女性の社会進出や活躍が進むなかで家事代行サービスは今後ますます必要とされ成長していく分野だろうと感じましたし、実際に利用世帯も着実に増えていることがわかり、大きな可能性のあるビジネスだと考えました。

さらに調べていくなかで、家事代行分野において外国人に就労ビザを出す動きがある、という情報を得ました。
それを知った瞬間、「これは、もともと自分がやりたかった外国籍人材の活用というテーマに、まさに合致する」と感じました。

こうして、外国籍人材の活躍の場として、家事代行サービスを第一弾に据えて事業を始めることを決めました

茂木社長が掲げているアップトレンド・スモールスタート・ニッチトップという3つの原則は、ピナイの事業にも当てはまっているのでしょうか?

はい。アップトレンドは女性の社会進出が進むという社会背景、スモールスタートは社内ベンチャーとして始めた点、そしてニッチトップは「外国籍人材による家事代行」という領域でトップを狙えると考えた点が当てはまっています。ただ厳密に言うと、ピナイとして法人化したタイミングでは、初めてスモールスタートではない戦略を選びました。これについては後程詳しくお話しします。

ピナイ家事代行サービスの「本当の強み」はどこにあるとお考えでしょうか?

最大の強みは、家事代行における“ベースのクオリティ”そのものが、圧倒的に高い点にあります。

そもそも、フィリピンという国自体が、世界でも非常に珍しい「家事代行に国家資格が存在する国」です。
おそらく、家事代行という分野に国家資格がある国は、世界的に見てもフィリピンくらいではないかと思います。

フィリピンでは、家事代行やハウスキーパーという仕事がごく一般的な職業として社会に根づいています。母国語は英語ですし、多くの女性が世界中に出て、家事、育児、料理まで含めて家庭を支える、いわば「第二の母親」のような役割を担ってきました。
祖母も、母も、姉妹も、「将来はハウスキーパーとして働きたい」と考える家庭も珍しくなく、それだけ人材の母数が非常に大きい国となっています。

たとえば、日本は野球やサッカー人口が多いからこそ、世界的に見てもレベルが高い。これと同じで、その仕事に長い歴史と圧倒的な人口がある分野では、土台となるクオリティがまったく違います。

ピナイではこの国家資格保持者に対し、採用から来日までに約8カ月かけて徹底した研修を行います。さらに来日後も、日本の生活様式やマナーに適応するための研修を約1カ月間集中的に実施しています。この研修時間は、他社と比べてもかなり長いはずです。


結果として、顧客満足度や継続利用率の高さにも表れており、ここがピナイの最大の価値だと考えています。

加えて、英語が話せることや、フィリピン人スタッフが子どもにとても好かれやすい点も大きな特徴です。
単に掃除や家事をこなすだけでなく、家族の中に自然に溶け込み、子どもも含めて信頼関係を築いていけるので、極端に言えば、家事を代行する存在ではなく、家族の一員のように家庭を支える存在になれます。そうした技術だけでない高付加価値の提供ができていることが、ピナイの強みだと思っています。

来日後の「日本の生活・文化に馴染むための教育」について、ピナイならではの取り組みはありますか?

正直、他社がどこまでやっているかを把握できていないのでどこまでが独自の特色かは断言できませんが、「日本の家庭で求められる細部の品質」を、実務レベルまで徹底して教えています。

ピナイとして大きく3つ注力していることがあります。

まず一つ目は、日本の家電や洗剤など“家庭内の道具”に関する理解です。
日本の家電は機能が多く、種類も豊富ですし、洗剤も非常に細かくラインナップされています。さらに、お客様のご家庭ごとに置いてある家電や洗剤がすべて異なります。そのため、どの家庭に伺っても混乱せず、正しく使えるように、事前にかなりの量を覚える訓練をします。

二つ目は、移動・交通の訓練です。
日本は交通網が充実している一方で、外国人からすると非常にわかりにくい部分でもあります。そこで、Suicaを持たせて「どこからどこまで、何分以内に行ってください」といった形で、実際の移動を前提にした“乗り換え訓練”を繰り返します。Googleマップの使い方も含めて、現場で困らないレベルまで落とし込みます。

三つ目が一番重要で、日本の家庭が求める「細部へのこだわり」への理解と再現です。
たとえば日本の方は、細かい部分を非常に気にします。海外では家が広く、全体をざっと整えれば良しとされる文化もありますが、日本の場合はそうではありません。
物を拭くときは、一度きちんと移動させてから拭き、元の位置に戻す。こうした“当たり前”の精度が、満足度に直結します。

さらに言うと、洗濯物の仕分けのように、些細な違いが思わぬストレスになるのも日本の家庭の特徴です。たとえば家族の下着や靴下はサイズが近くて間違えやすいですよね。そうしたミスを防ぐ仕分けの工夫なども含めて、「日本ではどこに品質を感じるのか」を徹底的に教えます。

加えて、挨拶の仕方も重要です。挨拶一つで印象が大きく変わるのが日本の家庭ですから、ここも研修でしっかり身につけます。

もう一つ、現場で特に大切なのが、自己判断をしないことです。
海外ではある程度任されて自分の判断で進めることが多いのですが、日本の家庭では、確認せずに進めて「思っていたのと違う」となると、強い不満につながりやすい傾向があります。
だからこそ、「少しでも疑問に思ったら必ず確認する」という姿勢に切り替えることを、繰り返しトレーニングします。

日本とフィリピンの最も大きな文化的価値観の違いはなんでしょうか?

一番大きな違いは、「時間」で考える日本と、「成果」で考えるフィリピンの感覚の違いです。
たとえば、「ここ・ここ・ここを掃除してください」と依頼した場合、日本人の感覚では「3時間の依頼なのだから、3時間しっかり作業してもらう」という前提がありますよね。

一方で、フィリピン人スタッフの多くは、どちらかというと成果主義の考え方を持っています。
言われた作業をすべて終えることがゴールなので、極端な話、3時間の掃除を頼まれて2時間で全部終わった場合、何も指示がなければ「終わったので帰ります」となってしまうことがあるんです。

これは決してサボろうとしているわけでも、悪意があるわけでもありません。「頼まれたことはすべて終えた」という、彼女たちにとってはごく自然な判断です。
逆に、作業が終わらなければ、3時間を超えてでも続けようとする傾向があります。

しかし、日本人の感覚では、「時間単位で依頼している」という意識が強いため、3時間の契約なら3時間きっちり作業してほしい、終わらなければ延長や追加料金を相談する、という考え方が一般的です。このズレが、何も教えなければトラブルの原因になります。

だからこそピナイでは、「日本では時間の考え方がこう違う」「ここを揃えないと不満につながる」という点を、具体的なケーススタディを通して徹底的に教えています。フィリピン人スタッフの多くは、これまで海外で働いた経験を持っていますが、日本の常識はフィリピンの常識とも、他国の常識とも異なる部分があります。「日本では、こういうところを特に気にする」「ここで品質を判断される」といった違いを一つひとつすり合わせていくことに、私たちは非常に力を入れています。

研修内容は、最初から完成形があったわけではなく、試行錯誤を重ねて磨き上げてきたものだと思います。社内ベンチャーとして始めてから法人化までの約3年間で、どの程度まで形にできたのでしょうか?

社内ベンチャーの3年間で土台は作りましたが、本当の意味での作り込みは2017年以降に始まりました。

これはなかなか一言では言いづらい部分なのですが、まず、社内ベンチャーとして動いていた最初の約3年間で、研修マニュアル自体は日々アップデートしながら作っていました。

ただ、その当時に雇用していたのは、フィリピン人ではあるものの、日本に永住権を持ち、すでに日本で生活している方々でした。要するに、日本人の配偶者で、日本の生活にも慣れている方をアルバイトとして採用していたのです。当時は、フィリピンから家事代行スタッフを呼ぶためのビザ制度がまだ存在していなかったためです。

そして、この制度が正式に整ったのが2017年2月です。私自身が東京都庁に足を運び、認定を受けたところから、ようやく「海外から日本に来るスタッフ」を前提とした体制づくりが始まりました。
当然、日本に住み慣れている方に教えるのと、日本語もまだ十分ではない状態で来日するスタッフに教えるのとでは、教育内容も方法もまったく異なります。

そのため、2017年の段階で、研修マニュアルは実質的に一から作り直しになりました。
そこから試行錯誤を重ね、ある程度ベースが固まったと感じられるようになったのは、2020年頃だったと思います。

ただ、正直に言うと、「完成形」と呼べるものは今も存在していません。現場で新しい課題が見つかれば、その都度マニュアルを追加・修正していますし、今でもほぼ毎週のように内容は更新されています。研修内容は一度作って終わりではなく、事業とともに進化し続けるものだと考えています。

ここからは茂木社長のことをお聞かせください。幼少期はどのようなお子さんだったと思われますか?

勉強は比較的できたけれど、性格としては本当に普通の子どもだったと思います。
小学校の頃は、周囲と比べると成績は良いほうで、いわゆる優等生タイプでした。先生のテストの丸つけを手伝っていたこともありますし、生徒会長を務めたこともあります。

ただ、キャラクターとしては決して目立つタイプではありませんでした。
活発だったかと言われると、そうでもありません。私の世代でいう「活発な子」というのは、真冬でも半袖半ズボンで走り回っているようなタイプでしたが、そういう子を見て「すごいな」とは思っても、自分がそうなりたいとはまったく思いませんでした。

クラスで人気者だった、足が速くてスポーツができて面白いなどのタイプとも特に積極的に関わるわけではなく、「茂木くんは優等生だよね」と言われるような立ち位置だったと思います。

そして、中学・高校に進んでからも、基本的な性格はあまり変わっていません。ただ一つ違ったのは、「勉強ができる」という立場ではなくなったことです。
私は麻布中学校・高等学校に進学したのですが、麻布は通信簿がなく、テストの点数と学年順位がそのまま配られる学校でした。300人の中で自分が何位なのかが、すべての教科で明確に分かります。最初のテストでは、下から数えたほうが早い順位で、「あ、これは思っていた世界と違うな」と感じましたし、以降は、勉強も特別できるわけではなく、「普通の生徒」という感覚がより強くなりましたね。

中学・高校では軟式テニスに打ち込まれていたそうですが、そもそもテニスを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

正直に言うと、「走らなくて済みそうだったから」というのが一番の理由です。

小学校の頃は野球をやっていたのですが、中学に進学する頃には体がかなり小さくて、「これは野球は厳しいな」と思うようになりました。

ちょうどその頃、『キャプテン翼』が流行っていたこともあり、サッカー部に入ってみました。ところが、当時のサッカー部はとにかく走ります。かなり根性論的な練習が多く、入部して2時間ほどで「これは無理だな」と思い、早々に辞めてしまいました。

その後、しばらく部活選びで迷っていたのですが、「運動はしたい。でも、とにかく走りたくない」という自分の本音に気づいたことから、「一番走らなそうな運動部はどこだろう」と考え、友人たちから話を聞いた結果、「軟式テニス部はランニングが少ないらしい」という噂を信じて入部しました。

実際は当然ランニングはありましたが、他の部活と比べると相対的には走る量が少なかったのかもしれません。結果として、走るのは苦手だけれど運動はしたい、という自分には合っていたのだと思います。

高校時代は大蔵省を志し、東京大学を目指していたと伺いました。そもそも、大蔵省を志望されたきっかけは何だったのでしょうか?

高校生になってから将来を考え始めたとき、私の頭にあったのは、「お金を動かせるところが一番強いのではないか」という、かなり単純なイメージでした。

私が高校生だった頃は、ちょうどバブルの時代です。世の中全体が浮き足立っていて、「お金をたくさん動かせる組織=力がある」という空気がありました。
そうした背景もあって、「それなら大蔵省かな」という発想になったのだと思います。

今だから言えますが、当時は大蔵省と造幣局の違いも、正直よく分かっていませんでした。
とにかく「国のお金を扱うところ」というイメージだけで、大蔵省を思い浮かべていたような状態です。

もう一つ大きかったのは、学校の校風ですね。麻布では、基本的に多くの生徒が東京大学を目指します。私の学年は300人いましたが、そのうち約150人が実際に東大に進学しました。文系で東大を目指すとなると、当時の進路の選択肢はかなり限られていて、官僚か弁護士か、というのが二大ルートでした。
周囲も自然とその話題になりますし、影響を受けた部分は大きかったと思います。「弁護士ではないなら官僚」「官僚なら大蔵省かな」とそんな具合に、周囲の空気と自分の漠然とした価値観が重なって目指すようになった、というのが実際のところです。

大学時代に「将来は独立したい、起業したい」と考えるようになったきっかけを教えてください

就職活動を通じた自己分析の中で、「自分は会社員には向いていない」と気づいたことが大きかったです。

大学3年の終わり頃から就職活動を始めましたが、当初は銀行に行こうと考えていました。
東京大学に進学できなかった以上、官僚の道は現実的ではない。そうなると、民間で「お金を動かせるところ」といえば銀行だろう、という非常にシンプルな理由です。

実際に銀行を軸に就職活動を始めたのですが、その過程で避けて通れないのが自己分析です。そこであらためて自分自身を見つめ直してみて、「これは会社員には向いていないな」と思うようになりました。まず、人に命令されるのが根本的に苦手であること、加えて、成功したときは自分の手柄で、失敗したときも自分の責任である、という状態のほうが性格的に合っていると気づきました。


すべてを自分で背負うほうが、むしろやる気が出るタイプです。これはよく言えば自責思考ですが、正直に言うと「成功も失敗も全部自分のものにしたい」という性格なんだと思います。
そう考えると、組織の一員として評価される働き方よりも、自分で会社を立ち上げて、すべての結果を引き受けるほうが向いている。そんな結論に至りました。

もちろん、その時点ですぐに起業しようと決めていたわけではありませんが、就職活動を続けながらも、「いずれは独立しないと自分はダメだろうな」という感覚は、かなりはっきりと持つようになっていました。
大学時代の自己分析を通じて、そのことに気づけたのが、起業を意識するようになった一番のきっかけだったと思います。

社長はよく「0→1をつくるのが一番得意」とお話しされていますが、就職活動時の自己分析の段階で、その強みはすでに認識されていたのでしょうか?

いえ、その時点では「0→1が得意だ」という自覚はまったくありませんでした。

当時の自己分析で分かったのは、「人に使われて働く会社員は自分には向いていない」ということと、「成果や実績で正当に評価される環境で働きたい」という2点です。

大学生の頃から、将来は何社も立ち上げていくようなイメージを持っていたのでしょうか。それとも、「いずれ起業したい」という漠然としたイメージだったのでしょうか?

正直に言うと、当時はほとんど何も考えていませんでした。

先述した通り、就職活動の中で自己分析をして、「あれ、自分は起業のほうが向いているかもしれない」と気づいた、という程度でした。
なので、具体的に何か事業をやりたいとか、複数の会社を立ち上げたいと考えていたわけではありません。

「独立したいな」と漠然と思った、というところで止まっていて、アイデアの解像度はかなり低かったと思います。
もしその時点で、「この仕事がやりたい」「この分野に興味がある」といったものがあれば違ったのかもしれませんが、当時はそこまで明確なものはありませんでした。

そのため、一旦は普通に就職しよう、という判断をしました。
就職することで、雇われる側の気持ちや、組織の中で働く感覚を理解することも、将来きっと役に立つだろうと考えた部分もあります。

今振り返ると、結果的にはその経験も無駄ではなかったと思いますし、そういう意味では「まずは社会に出てみよう」という選択だったのかなと思います。

博報堂での6年半を振り返って、「この経験があったからこそ今がある」と感じる仕事や出来事を一つ挙げるとしたら、何を思い浮かべますか?

一番大きかったのは、最初に出会った上司から教わった「仕事に向き合う姿勢」です。

私は博報堂では営業職として働いていましたが、入社して最初に上司から求められたのが、「仕事にどういう意識で向き合うのか」ということを自分の言葉で書き出すことでした。

その上司には、明確な「仕事観」があって、それを徹底的に叩き込まれた感覚があります。
イメージとしては、「電通鬼十則」のようなものですが、もっと個人的で実践的な指針です。

当時は正直大変でしたが、その考え方や行動基準はその後どんな仕事をする上でも自分の中のベースになっています。
今振り返ってみると、あのときに教わった「仕事に向き合う姿勢」そのものが、博報堂時代で得た一番の財産だったと思います。

具体的にはどのようなことを教わったのでしょうか?

内容はいくつかあったのですが、特に印象に残っているのは、「仕事はすべてコミュニケーションである」という考え方と、「常に目的意識を持って仕事をしなさい」という教えです。

いわゆる「レンガを積む職人」の話です。ただレンガを積む作業をしているのか、それとも「人が安心して過ごせる場所をつくるためにレンガを積んでいる」と理解しているのかで、仕事の質はまったく変わることから、常に何のためにその仕事をしているのかを意識しろと教えて頂きました。

もう一つ、今でも強く残っているのが、「自分が最後の砦である」という言葉です。
これは、私の性格でもある成功も失敗もすべて自分の責任で背負いたい、という考え方とも重なります。

何か問題が起きたときに、「誰かが何とかしてくれる」と思うのではなく、「自分の後ろには誰もいない」「自分が最後の砦なんだ」という意識で仕事をしなさい、という教えです。
仕事をすべて自分事として捉え、自分の責任として引き受ける姿勢がなければ人は成長しない、という考え方は、当時だけでなく、今でも私の仕事のベースになっています。
起業してからも、「これは自分の責任だ」「自分が引き受けるしかない」という場面は無数にありますが、そのたびに、この教えに立ち返っている気がします。

茂木社長が掲げているアップトレンド・スモールスタート・ニッチトップという“失敗しない絶対法則”は、博報堂時代に身についた考え方なのでしょうか。それとも、その後の経験を通じて確信を持つようになったものなのでしょうか?

博報堂で学んだというより、いくつか事業を立ち上げる中で、後から言語化できたものだと思っています。
むしろ、いくつかビジネスを立ち上げていく中で振り返ってみたときに、「自分は無意識のうちに、いつも同じポイントを気にして動いていたな」と気づいた、という感覚に近いです。

最初の起業である株式会社ワーキング・ヘッズ設立のタイミングは、計画通りだったのでしょうか。それとも、「今だ」と感じたタイミングだったのでしょうか?

博報堂入社前は「3年くらいで独立しよう」と考えていましたが、最終的にはタイミングを見極めての決断でした。

入社前の段階では、「石の上にも三年」という言葉をわりと素直に信じており「とりあえず3年くらいは働こう」と考えていましたが、実際に働いてみると、博報堂は本当に良い会社でした。仕事は大変でしたが面白いですし、待遇も悪くない。何より、周囲の仲間や上司が非常に優秀で、一緒に働くのが楽しかったため、そうこうしているうちに気づけば想定していたよりも時間が経っていました。

もう一つ大きかったのは、「よほど納得できる状況でなければ、博報堂を辞めたくなかった」という気持ちです。
何の準備もなく辞めて貯金を切り崩しながら「何をやろうかな」と悩む状態には絶対になりたくなかったので、自分の中で「このビジネスなら食べていける」という確証を得てから辞めよう、と決めていました。
そのため、博報堂で働きながら業務時間外に事業計画を練ったり、プレゼンを重ねたりしながら、事業として成立する手応えを探っていました。

そして、「これならいける」と思えたタイミングが、ちょうどネットバブルの時代でした。
当時は、インターネット関連の事業であれば一定の需要が見込める状況で、今で言う「AIは伸びるから、とりあえずAI周りで何かやれば食べていけるのではないか」と考える感覚に近いと思います。

そうした時代背景と、自分の中での準備が重なったところで、「今だ」と判断し、最初の会社を立ち上げました。

ピナイ・インターナショナルを法人化して以降、経営者として「これは想定外だった」「特に苦労した」と感じた出来事はありますか?

一番の衝撃はコロナですが、それ以上にまったく違う土俵の経営に踏み込んだため、想定外の連続でした。


というのも、私はこれまで約20年近く、博報堂時代も含めて一貫してBtoBをやってきました。しかし、ピナイは私にとって初めてのBtoCです。さらに、外国籍人材を大規模に雇用するという経験も、これが初めてでした。
経営者としての経験はある程度積んできたつもりでしたが、これまでとはあまりにも土俵が違い、一気に別の競技に放り込まれたような感覚でした。

特に大変だったのが、フィリピン人スタッフとの文化的な違いのすり合わせです。
仕事に対する姿勢自体は非常に真面目ですし、誠実なのですが、ものの考え方や価値観が日本とは大きく異なる部分があります。
たとえば、時間の捉え方や遅刻に対する感覚、お金の使い方などです。

フィリピンでは、給料は月2回支払われるのが一般的です。一度に支払うと、翌月まで持たずに使い切ってしまう人が多いからです。
実際、給料が入ると、迷いなく全額仕送りに回したり、困っている人を助けたりして、気づけば手元にお金が残っていない、ということも珍しくありません。

また、日本円で稼いでも、円安が進めば仕送り額の価値が目減りしてしまいます。さらに、フィリピンから人材を受け入れる際の採用費用は、送り出し機関への支払いがドル建てになることも多く、円安の影響でコストは大きく膨らみました。一時期と比べると、採用コストは1.5倍近くになっています。

もし、日本人中心の組織に外国籍人材が1人いる、という形であれば、周囲がフォローすることもできます。
しかしピナイの場合は、むしろ外国籍スタッフの方が圧倒的に多い。だからこそ、日本の常識を一方的に押し付けるのではなく、彼女たちの文化や価値観も理解したうえで、どうすり合わせていくかが最大の課題でした。

そうした文化の違いへの対応、為替や制度の影響、そしてコロナ禍と、本当に初めてのことばかりで、経営者としては非常に鍛えられたと感じています。

コロナ禍ではどのようなご苦労があったのでしょうか?

ピナイのサービスは、フィリピン人スタッフが各ご家庭を訪問して家事を行う、いわば「人が動くこと」そのものが価値です。そのため、入国が止まるということは、サービスそのものが増やせない、つまり「商品が入荷されない」状態になるということでした。

コロナ禍では、人と会うこと自体が避けられる空気がありましたが、実はリモートワークが広がったことで、家事代行の需要自体はむしろ増えていました。家で過ごす時間が長くなり、仕事も生活も同じ空間になる中で、「家の環境を整えたい」というニーズが高まったからです。

最初の緊急事態宣言の直後こそ利用は一時的に落ち込みましたが、その後は「使いたい」という声が常に溢れている状態でした。
にもかかわらず、新規入国が止まり、スタッフは増えない。さらに、ビザの期限が来れば帰国は求められる。結果として、提供できるサービス量は日々減っていく、という非常に苦しい状況でした。

加えて、これは完全に私たち自身の判断ですが、ピナイの事業には大きな将来性があると考え、立ち上げ当初にシステム投資や人材投資をかなり思い切って行っていました。つまり、この事業に関しては、私がこれまで一貫して守ってきた「スモールスタート」というルールを、初めて破ったケースでもあるのです。

小さく始めるのではなく、最初から一定の規模を前提に走り出したものの、そこにコロナという想定外の事態が重なったことで、経営的には非常に厳しい局面を迎えました。

スモールスタートではない形で立ち上げた直後にコロナ禍に突入となれば、創業当初は相当大変だったのではないでしょうか

そうですね。この判断は見事に裏目に出ました。

ピナイは、立ち上げ当初から先行投資をしていたため、毎月赤字でした。
本来であれば、人材が入ってくれば売上が伸び、それに伴って利益が出て、赤字が黒字に転じていくという事業計画を描いたのですが、その「人が入ってくる」という前提がコロナによって完全に止まり赤字のまま事業がスタート。その状態が3年間続いたため、経営的には本当に厳しかったです。資金がひたすら減っていくばかりなので、自分の持っている資金をただ入れ続け会社を存続させていました。


また、当時は『令和の虎』にも出演し始めていました。そちらでは虎として志願者に出資をする立場でもあるので、こちらでもお金を出していました。今振り返っても、よく持ちこたえたなと思いますし、創業当初の判断がいかにリスクの高いものだったかを、身をもって痛感した経験でした。

『令和の虎』に出演されることになったきっかけを教えてください

正直に言うと、コロナ禍で「時間ができたから」というのが最初の理由です。

思うように事業が動かせない中、「この機会にメディアに出て、社長の顔やピナイという名前を仕込んでおこう」「コロナが明けたときに向けて、今できる準備をしておこう」という話を社内でしていました。

また、私自身が『令和の虎』の視聴者でファンクラブにも入っており、当時開催されたオフ会に参加したことが転機となりました。

そこで、初代主宰の岩井さんと知り合い、いろいろ話をしているうちに、「茂木さんは“虎”でしょ」と声をかけていただいたのがきっかけで出演することになりました。

コロナが明けてからどの位の期間で経営を持ち直されたのでしょうか?

コロナが明けてからもしばらくは大変でした。一時的に人員を大きく絞っていたこともあり、需要が一気に戻ってきてもすぐに対応できない状況でしたし、フィリピン側でも人材の送り出しが止まっていた時期があったため、供給が追いつかず、コロナ明けから1年ほどは、かなりバタバタしました。

それでも、そこを越えてからは、スタッフの受け入れも順調に進み、売上も安定して伸びています。結果的には、当初描いていた事業計画に、約3年遅れでようやく到達したという感覚です。正直、この3年間は本当にきつかったですが、だからこそ、今は「ようやくここまで来たな」と、少しホッとしています。

今後、ピナイ・インターナショナルをどのような形で発展させていきたいとお考えでしょうか?

家事代行にとどまらず、外国籍人材とともに日本を支える事業を、横断的に広げていきたいと考えています。

ピナイは現在、家事代行サービスの会社として知られていますが、そもそもの原点はそこではありません。
最初にお話しした通り、「外国籍の方に日本に来ていただき、一緒に日本を盛り上げていく」というのが、私の一貫したテーマです。

少子高齢化が進む中で、AIの活用やシニア層の再活用など、さまざまな対策が語られています。
それらも重要だとは思いますが、根本的な解決策は、若く、意欲的に働ける人材の数を増やすことだと私は考えています。

ただ、その担い手を日本人だけで確保するのは、今後数十年というスパンで見ても現実的ではありません。
だからこそ、外国籍の方に日本に来ていただき、共に働き、共に日本を支えていく。この流れをつくることが、最も重要だと考えています。

ピナイが目指しているのは、外国籍労働力に関わる分野でナンバーワンの企業になることです。
家事代行は、その第一弾にすぎません。

今後は、第2弾、第3弾として、外国籍人材に特化した人材紹介事業を立ち上げる予定です。これはすでに具体的に動き出しており、2026年以降の開始を見据えています。
さらに、外国籍の方が増えていく中で、より良い住環境の提供といった分野にも、事業として関わっていく可能性があります。

また、家事代行と親和性の高い領域として、制度が整えば、ベビーシッターや介護といった分野にも展開できると考えています。
こうした事業を横に広げていくことで、外国籍人材が日本で安心して働き、生活できる環境を、総合的に支えていきたいです。

やれることは、正直いくらでもあります。とにかく外国籍の方の力を活かして、日本を盛り上げることに関わるビジネスを、領域を限定せずにやっていく。それが、ピナイの描いている将来像です。

最後に、他の経営者の方におすすめする書籍がありましたら、タイトルとおすすめのポイントを教えてください

ビジネス書よりも、気持ちが上がる作品をおすすめしたいです。

私は本を読むのは好きですが、いわゆる学び系のビジネス書はあまり読みません。
正直に言うと、ビジネス書を読んだからといって、翌日から経営が劇的に変わることはほとんどないと思っています。

その代わりによく読むのが漫画です。たとえば『キングダム』や『ONE PIECE』はどちらもチームや仲間を率いて、明確なゴールに向かって突き進んでいく物語ですよね。経営者という立場の人間は、ああいう世界観が本能的に好きだと思いますし、読んでいると純粋にテンションが上がります。

もう一つ、個人的に一番好きなのが『サンクチュアリ』です。
この作品は、主人公が二人いて、幼少期にカンボジアで戦争に巻き込まれ、壮絶な経験をした後、日本に戻ってきます。
そこで「この国は平和ボケしすぎている。自分たちが立て直さなければならない」と決意し、一人は政治のトップを、もう一人は裏社会のトップを目指す物語です。

正直、これを読んで「経営ノウハウが学べるか」と言われると、そうではありませんが、圧倒的に気持ちが上がります。「やってやるぞ」「戦うぞ」というスイッチが入るんです。

ビジネス書には、確かに学びはありますが、書いてあることの多くは突き詰めると「当たり前のことを、当たり前にやりなさい」という話に集約されます。

一方で、経営者は人間です。最後にものを言うのは、理屈よりも「どれだけ本気で戦う姿勢になれているか」だと思っています。
経営者自身が本気になれば、その熱は必ず組織に伝わります。

そういう意味では、これらの作品は教材というより、カンフル剤に近い存在ですね。知識を増やすための本ではなく、心を戦闘モードに持っていくための一冊として、経営者の方にはぜひおすすめしたいです。

投稿者プロフィール

『社長の履歴書』編集部
『社長の履歴書』編集部
企業の「発信したい」と読者の「知りたい」を繋ぐ記事を、ビジネス書の編集者が作成しています。

企業出版のノウハウを活かした記事制作を行うことで、社長のブランディング、企業の信頼度向上に貢献してまいります。